美しい、君に見せなくては。

Girls Don't Cry, Boys Be Smile.

なんだか急に降ってきたこと

 なんだか急に降ってきた
 自己憐憫だとか
 自己陶酔だとか
 自己滅却とか
 自己成長とか
 自己増長とか
 悪ノリとか
 妄想や空想や想像や、その他あらゆる思い込みや、自分に都合のいい考えとか
 自意識過剰だったりとか
 自己主張だとか
 自分をこう見せたいという無意識の行動や言葉
 もしくは意識している行動や言葉
 
 あるいは普通でいようとすること
 それから普通でなくてもいいと思うこと
 
 なんだかそういうものが、気持ち悪くてダサくてズレていて無様で、不甲斐なくて情けなくて、なんかどう書いたらいいのかわかんない
 いっぱい列挙したけど、たぶんまとめたらこんなことぜんぶが一遍に、得体のしれない違和感としてふっと頭に湧いてきて、
 
 そう感じた瞬間に
 何かが腑に落ちたような気がしたけれど、たぶん、それもまやかしだって感じで
 なんだか自然になれそうな気もするし、ぼくの本能に書き込まれているなにがしかは、まだ自分の中にいるって気もしている
 
 自分のことはたぶんもう信じなくてよくて、
 自分のつながりを信じてたらよいって
 なんだかそんな気がしてて
 つながりさえきちんと守れたら、それは自分のこともそうしているということで
 なんか、そうしたらいいんじゃないかって
 なんか、シンプルだなー、と思って。
 
 これでいいんだろうかね
 つながりはきっと、そうとは意識せずに応えてくれるんだろう
 わたしがそうできたなら

マダラ模様の現実と信じていること

 目が醒めると、いつの間にか大人になっていた。ならざるを得なかった。なることを求められた。そういう年齢になっていた。大人になりたくないわけでもないし、もっと前から大人だったという気もする。自分のことは、相変わらずよくわからない。自分の中が、マダラだ。
 そういう不安定さによって人の信用を失ってしまった。それも当然なのだ。大人とかそういったこととほとんど同じの概念を持ち出せば、私は現実の世界に生ききることができていなかった。
 現実というテーマなんて自分の中にもう何年も前から発想していたことなのに、いまになってもまだ消化し切れていない。やはり現実は現実でないと、現実ではない。
 そして、そのことごとは人にはまったく関係のないことだ。それだって現実。生きていくのも現実。自分はただ幸運にも生き延びることができていたというだけであって、ただ許されていたというだけであって、現実とはやはり別に生きていた、生きてしまっていた。
 そこから醒めたということ。
 マダラであることについては自分の中にも混乱がある。そう頭では理解していることも、無意識なのか本能なのか、もっと自分の奥の方で、そちらを求めてしまっている。現実に生きないことを。大人にならないことを。よほど心地よかったのか。でもそれでは生きてはいけないこともわかっていることだ。
 そして、そのことも人には関係がないことだ。勝手に自分の中で咀嚼して、せめて人を傷つけんなよ、壁になるなよ、あし引っ張んなよ、ということ。そういうことを踏まえて人と向き合ったり関わっていくのは、ぜんぜん自然ではない。
 現実と向き合うとか、大人になるとか、この年齢として当然のこととか、そういうことを大雑把に概念として考えていても仕方なくて、自分としての現実を、きちんと細分化して一つひとつ向き合っていくということでしかない。例えば人との関係、例えば仕事、例えば自分のやりたいこと。もっと言えば、この人との関係、あの人との関係、仕事のこういうことああいうこと、自分のしたいことについての具体的な何か。具体的に考えるのは当たり前のことだけど、マダラであるという表現をするということは、どこかしらはやはりうまくいっていなくて、それをさえ認識できていない、向き合えていない、ということ。
 どっかに自分の弱さが見え隠れしていて、それが不甲斐ないし、それ自体が見て見ぬ振りをしていることの正体なのでは。そこに根があるのでは。自信は何かをやることでしか、芽生えることはない。増長するのではなく、勘違いしてしまうのでもなく、ただただ正しく現実と向き合い続けていきたい。
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 自分にはなにもない。人に誇るようなものを自分の属性として持っているわけでもない。「今のところ」とか言いたくなるけれど、今後どんな人生になるのかなんて、まったく想像がつかない。縁も運命もいつも数奇ですから。
 自分でこんなことを言うのも変だけれど、目の輝きだけは失いたくない。それだけが自分の生命線である。僕は自分の目の輝きを知っている。何かに希望を持っているわけでもなく、ただ好奇心の塊として、ものを知り理解し、人と向き合い議論して理解していく、その過程すべてを肯定してくれる人と、一緒にいるべきだと思う。それだけは信じている。
 なにもない自分にはそれしか信じるものがない、とも言える。死ぬまで自分にとっての現実と自分の大事な人にとっての現実、そのすべてと向き合い続ける持続した勇気が、いまは欲しいのです。

最近思ったことの雑文

 なんだか最近は人生の節目っぽいことが立て続けに起こっていて、自分でも転機だなー、と思ったりしているので、なんとなくまとめておこうかな、と。いま感じていることとか、なんか、そんなこと。全然まとまりのない雑文です。本当はなにかお話を書こうとネタ帳を開いたのだけど、なんかそんな気分でもなくなったので、それはまた別の機会に。
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 最近、面白いなー、と思ったのは、人と人との関係が変わっていくのが本当に興味深いことだ、ということ。たぶん、日常的に起こっていることなのだろうけれど、私にはそれが物珍しいというか。それなりに(大学時代とか)社会経験もあったにせよ、そのころにはそんなことを感じている余裕もなかったし、目もなかったなー、と。ずっと日陰に居て、人と人との関係を本当に新鮮に感じてる。いろんな人の態度とか言動とか顔つきとか、なんかそういうことなのかな、と。自分に対してというだけではなくて、刻々と変わっていく人の”感じ”を日々楽しく見ているという感じです。入って一ヶ月くらいの間はいい顔を見せていた人が、なんか雑になったりね。それはそれでうれしいことだけど。段々と人間関係が見えてきたという感じ。そんなに人の多い会社でもないし、まぁ、それはそれで大変なんですが。
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 人に期待されるのは、やはりとてもうれしいことだ。だからこそけしかけられることは、自分にはとてもガソリンというか、やる気が出る要因になっている。
 書くことを期待されるとか、けしかけられるとか、そういうことは全くなかったから。それは文章を書くのが下手くそな自分があかんだけだけど。自分で好きに書いているだけなんで、たぶん安易にけしかけられたり何かを勧められると滑稽に感じてしまうと思う。仕事はもうすでにお金という信頼で繋がっているから。やって当たり前だしね。僕の文章は、人に認められるようなものでもないし、期待されるようなものでもないし、まぁ。書くことを期待されるような文章を書けてたらいいんですけど、まぁ、そうでもないことはわかっているので。ただ好きに書いていきます。
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 あとは考えたくなくても考えてしまうのは、やっぱりやめたい。非生産的だから。考えても仕方ないことを考えているのはとても不毛。考えの出発点からして間違っているのに、それを延々と考えてるのは、自分にとってはとてもマイナスだと思う。きちんと効果的に考えることができたら、もっと有効に時間を使えるのに。前提条件がそもそも間違っていることがとても多い。たぶん、そこに無意識とか何かしらの欲求とかが隠れているのだろうけれど、まぁ。考えてしまうことには、なんかいろんな理由を自分で自分に感じているけれど、もう、自分にどんなに言い聞かせても、無理だな、という感じはあるんだよね。
 考えなくていいこと考えてしまって、それを口にしたり、ツイートしちゃったり。なんかそういう不毛なことに少しでも敏感になってうまくやっていけたら、もう少し人生が変わるんじゃねぇかと思ったりする。そういう意味では全然考えていないと言えるし、めちゃくちゃばかなんじゃないかと。ただ本能で喋ってるだけだな、という時もある。それで人に評価されてしまうのは、自分にとってはとてもマイナスだと思う。無垢だと言っても、それで生きられるわけじゃないから。今はとにかく喋るのが楽しいけれど、まぁ。
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 友情とか恋愛とか親子とか普通に人間関係とか、みんなある程度パターンを持っているように感じてるんだけど、自分はその都度ごとに探り探りやっている気がする。人間一周目、みたいな。特に恋愛はみんなパターンに嵌めたがる感じするけど、そういうのが全くわからない自分はやっぱり苦労するよね。昔も苦労してたし、そういうこだわりみたいなことがない人との方が断然うまくいったし。それで頭おかしいとか言われても、やっぱりなんとも思わんよ。それはまぁ、考え方が違うってことなんだろうけど。
 やっぱりなんだかんだ言って、間違っていても自分で考えようとする人の方が性に合っているのかな、という感じはある。
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 それから、SNSの人間関係は、やっぱり難しいな、と思ったりする。みんな考え方も使い方も違うしさ。まぁ、何を以っても人を嫌な気持ちにしてしまうのはダメだけども。ここだけで人に信頼されたり、信頼することはたぶん無理だと思う。というか、自分には無理。自分は割り切っているつもりでも相手はそうじゃなかったり、自分を抑えられなくなることもあるしね。孤独とか承認欲求ってのは、やっぱり人を焼くな、と思う。人によってSNSの考え方も使い方も全然違う。そこのところをきっちり考えるだけの余裕が今の自分にはない。昔はハナから諦めていたことが可能になったりすると、自分も壊れるし、人も壊すよ。環境も現実も全部変わってしまったし。人のコンプレックスとか欲求を、どうこうしようとはあまり思わないしね。その人が好きなようにしたらいい。斬りかかって来るなら迎え討ちますが。
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 現実がすべてであるのに、自分とか妄想とかに逃げ込んでしまうのでは、生きていけない。そうせざるを得なかった時はあった。そうでないと自分を保てないような。でも、それは人に理解されるようなものでもないし、人には関係ないから。ほんとうに現実がすべて。考えてることは実現しなくては、現実ではない。現実にするつもりのないことを考えるのは、けっこう不毛なのだけど、それによって生きてきてしまったことは、いまの自分を現実から遠ざけている。いろんなことがわかっているはずなのに、それを実現できていないことは、本当に歯がゆいこと。信頼をとても損なってしまう。まだちょっとだけ現実に生きていないという感じがある。なんか。それが本当に苦しい。
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 最後に。語れば語るほど、伝わらない。かと言って何も語らないことでは何も伝わる余地はない。だから語る。でも伝わらない。至らない。尽くせない。なんかそういった不甲斐なさみたいなことが、最近は自分の原動力になっている気がします。生きてたら、きっと、誰かに何かを伝えたい時が来るのに、それができないような気がしていて、なんだかやけに焦燥したりする。書きたいことは山ほどあるのに、それをモノにできないのは、本当に悔しいことだ。まだまだ精進します。