どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

それは言葉でしかなくて、その、もっと奥にあるもの

 唐突だけれども、なんかこんなことを書いておくべきだと思うので書く。
 誰かがなにかを愛おしいという気持ちを、ぼくは(たぶん)決して否定しないと思う。でも、そのことを大事に思っているということは、誰の何であっても、たぶん興味があんまりない。関わっている人と好きなものや、あるいは嫌いなものが共通しているべきだともあまり思わない。あぁ、この人はこういうものが好きなんだなぁ、というそういう感じでいい。
 それは、なにかを愛おしいという気持ちの、その全部を完全に理解することなんてできない、と思っているから。だって、その人とぼくは違う人間ですから。当たり前の話。世界のどこかにはその人にとってのその愛おしさを完璧に理解できる人がいるのかもしれないけれど、というかやっぱり想像したって、そんなことは無理なんじゃないかと思ってしまう。
 その気持ちは決して否定はしないけれど、受け入れるけれど、その嗜好を、やっぱり自分はわかってねえんだろうな、と思うことにしてる。
 表面的に説明されても、たぶん、それは伝わらない。その対象が何かのアイコンだとしても、かなり難しい。それが人間や書籍なのなら、もう完璧に理解不能だな、と思ってしまう。
 好きも嫌いも同じ。
 自分が持っていない価値観を知ることはもちろん大事。それで世界が拡がるってことは絶対にある。そして、それは楽しいことだ。だけどやっぱり、その人が感じたようには感じることはできない。
 それをうまく取り出して人に説明できるような人もたぶんいるのだろうけれど、それはその人にとっての都合の良い取り出し方であって(例えば、キャッチーだとか、自分を良く見せたいとか)、やっぱりその人の感じたものそのものではないんじゃないか。
 それで、ぼくは、だから、「あなたを幸せにする」とは言わない。ぼくと居たら幸せだと思うのなら居たらいいし、そうではなくなったら去ったらいい。「私を幸せにしろや」という人とは関わりたくない。その人の幸せは、その人が自分で担保するべきだと思うから。自分の責任で幸せを維持して、発展させて、広めるべきだ、と思うから。
 もちろんそうは言っても、ぼくは人を幸せにするのがとても好きだし、そばにいる人には良い気分で居て欲しい。そういう努力はもちろんする。当たり前のこと。
 好きだ、とか、愛おしい、とか、楽しい、とか、幸せだ、とか、(あるいは嫌いだ、とか)そういうのは言葉じゃない。それだけでは伝わらないし、実現もできない。
 「これがこういう風に愛おしい」と言っても、「あなたを幸せにする」と言っても、それだけでは、すべてをまったく尽くせない。
 それは言葉でしかなくて、ぼくたちは、なんだかもっと別なものを感じて生きているんじゃないのかなぁ、と思ったので、書いてみました。
 この文章が誰かの救いになったら、とてもうれしいのですが。

歪んでいる自分、素直な自分

 先日書いた自分を悪く思うこと、人を悪く思うこと - 美しい、君に見せなくては。の続きです。トラウマとそれに付随する楽しかった記憶のつながりについての話でした。
 人は良いことをすることもあれば、次の瞬間には醜悪だったりする。それを了解できる範囲でみんな関わり合っている。そうできないのなら、一緒にはいられない。あるいは、何かを媒介にして関わるんだろう。例えば賃金とか、仲間との結束とか、生活していくため、とか。
 楽しみと苦しみ、あるいは良いことと悪いことはなんだか表裏一体なんじゃないかと思ったりする。楽しいことと苦しいことが混じり合ってこそ、楽しみは苦しいし、苦しみは楽しい。悪いことはしないほうがいいけれど、人間はたぶん、そういうものだから。良いことだけをする人なんて、僕には想像がつかない。
 トラウマをトラウマにしているのは、そこに楽しかった記憶があるから。そこにトラウマなりコンプレックスなりがあるとしたら、何かに執着してしまうのだとしたら、それと自分を繋いでいるのは、たぶん、楽しかった記憶だけではなくて、もっと深く心の中に根ざしたなにか。例えば、「信頼」とか。
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 信頼を裏切ることは、やっぱり、悪いことなんじゃないか。
 トラウマとか楽しかったとか、ぜんぶ、それらを苦しく思うのは、執着しているからだ。いまの自分が。
 問題なのは、「いま」の「自分」が、「どうしたいのか」、ってそれだけなのだと思う。本当に自分がしたいことはなんなのか、本当に自分が想っていることはなんなのか、という、たったそれだけなんじゃないか。
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 僕はそれを安易に示してしまっていた。何かを意識して隠そうとはしていなかった。無意識が表層に出てしまう、といったらいいか。
 苦しいことを苦しいという。悩んでいることを悩んでいる、という。
「それ」が外界に飛び出ていることに、自分でも気がついていない。そのくらい(よく言えば)ナチュラルにいろんなことを考えて、行動してしまっていた。欲望に忠実だし、それを人にどう思われるか、について配慮することをほとんどしなかった。
 そういったことが、僕自身の幼さから来るものなのか、僕の本質的な何かであるのかはわからない。でも、たぶん社会の中ではとても不利なのだ。現実としてずっとそうだったのだから。そういうことはたぶん僕が感じているトラウマとも繋がっている。
 自分の嫌な面はどんどん無作為に出ていってしまう。それは、どんな人間関係だとしても、決してうまくいくわけがない。
 でも、だからこそ、それをコントロールできさえすれば、「表現」ができる。そう思ったりもする。
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「信頼を裏切ってしまった自分」を、「信頼」できないでいる。人を裏切ると同時に、わたしは自分をも裏切ってしまった。
 そうやって、自分は歪んだと思う。
 自分を悪く思うことで自分に罰を与えても仕方がなくて。ただ自分を悪く思うだけでは、何も解決しない。自分はずっと歪んだまま。
 歪んだままの自分を示してしまえば、さらに自分は歪んでしまう。人からも当然そう思われるし、自分でもさらにそう思い込む。そういう悪循環があったんじゃないか。
 歪んでいる自分をなんとかするために、自分を信頼してくれる誰かを探していたし、誰かを信頼したいとも思っていた。でも、ネットの限られた情報の中で、自分を適切に示して、人を見つめて、信頼し合うことは自分には難しかった。そして、その時にはそうするしか人と関わる方法はなかった。
 ネットにだって、もっと可能性はあると思うんだけど、自分はうまく使えていない。
 いろんなことが間違っていたと今になって思う。
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 無意識に示してしまっていることと、自分のこうでありたいということに乖離がある。それは、自分が歪んでいるから。本当には素直でないから。だからトラウマも楽しみも、うまく扱うことができない。

問題なのは、「いま」の「自分」が、「どうしたいのか」、ってそれだけなのだと思う。本当に自分がしたいことはなんなのか、本当に自分が想っていることはなんなのか、という、たったそれだけなんじゃないか。

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 何がしたいのか、って、そりゃあ、楽しく生きていたいよ。それさえできたらなんだっていいし、そのためにならなんだってやるってだけなんじゃないの。いつまでも歪んでたら、楽しく生きることはできない。
 今日はこの辺でおしまい。

自分を悪く思うこと、人を悪く思うこと

 唐突だが、『幽遊白書 19巻』の『SPECIAL DAY』という話になんでこんなに執着していたのか、読んでみてやっとわかった。
 トラウマに付随している楽しかった記憶にわだかまりがあるからだ。僕のは別に催眠術とかではないけど。
『SPECIAL DAY』という話にはいつものごとくいろんな要素が詰まってる。でもそのほとんどは僕にとっては今のところどうでもよくて、この話には「トラウマを解消しようとすると催眠術によってトラウマを与えた人との楽しい偽の記憶が沸き起こってくる」というのがキーになっている。それを解消する話。
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 トラウマだけ解消しても、人生をうまく生きていけない。その楽しかった気分も含めて了解・消化しないと。
 楽しいことをしようとすると、トラウマも一緒についてきてしまう。要は人と接するってことだけども。また同じことが起こるんじゃないかと、どっかで思ってしまってる。それはいろんなことの原因の一つなんじゃないかね。それを清々しく断ち切るような話だから、読みたかったんじゃないの。
 トラウマと楽しいことがセットになっている場合、トラウマを忘れよう、取り除こうとすると、他の楽しかったことも同時に失うことを躊躇してしまう。
 そこには人を悪者にしたくないという気持ちがあるのかも。そうするくらいなら、自分が悪者になったほうがいい、と思っている節はある。そのほうがマシだと。この楽しい思い出を共有していた人たちは悪くなくて、悪いのは自分なんだと。
 なんか人生そればっかりという気もするし、勝手に自分で悪者になっていっているのか、そんなことしなくてもただ悪者であるだけなのかはわからない。少なくとも、自分についての解釈はいつも自分を悪者にする方に落ち着いてるんじゃないか。悪いこと、そうでもないこと、の判断を人の客観に委ねるということをしたことがない。
 現実として人が離れてった時に、自分が悪いのか(そう思おうとするし、そういう要因を探そうとするけれど)人が自分の悪さに罪悪感を抱えて遠ざけようとしているのか、やっぱりよくわからない。
 なんだかいろんなことを考えてしまうのだけど、それを解決しようとするほど人に興味を持てなかったりする。結果としてこうなっている自分はやはり悪いやつなのだ、と思うことでいつも自分を納得させている。
 そのほうが心がなんでか穏やかなのだ。不思議だけど。人のせいにすることをほとんどしないし、したくない。自分に非があったと思いたいのかもしれない。
 そして、自分を悪者にしている自分はやっぱり悪者であって、それはつまり何かを解決しようとしないということなのだから。
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 無意識に人にしている具体的な行動が、自分の内面を示してしまっているのだとしたら、それに抗うことは、とてもしんどいはずだ。
 自分を悪い人間だなんて、本当には思いたくない。でも、そうすることでしか自分を保てないように、自分の考える癖のようなものはできているのではないか。相手が悪いと思うことは、思考停止だ、くらいに思っているのかもしれない。
 きちんとそこのやり取りをして、誰の何がよくないのかをはっきりさせようとしないことには、自分はどんどん壊れていってしまう。というか壊れた結果が今なのだと思うけど。もう一生取り戻せないことが山ほどある。
 素直になること。自分の本心に対して抗ってしまっている無意識(例えば、悪いのは自分だけなのだ、という決めつけ)をなんとかすること。
 自分だけがいつも悪いわけではないし、そこにいた人だけが悪いわけでもない。そこを自分はきちんと判断できていないでいると思う。いつも。
 だからこそ、トラウマと楽しかったことを分離できないのではないか。
 今日はこの辺でおしまい。