自分にそれをやめることを許してしまう
いまのぼくに、報われるべきなにか、あるだろうか。
なにかの願いをもってそれをしているだろうか。
それによって、なにも起こらなくても構わない、と思ってる。
本当にそう思っている。
だからと言って、それが自分の目一杯か、というと、たぶんそんなことはなくて。
どんなに人に認めてもらえている感じがしても、なんだかいつも自分のことを不甲斐なく思ってる。
自分はとことんに運が良いと思う。
運が良いからこそ、まだ自分がやる余地があると思う。
どんな運勢だって、きっと、人の役に立つことはできるんだろう。
いまは、ただ、運が良いだけ。
だから、人の役に立てているように見えているだけなんだ。
いつか、気を抜いたら、人を裏切ってしまうんじゃないか。
いまできていることができなくなるんじゃないか。
そういうような、漠然とした不安がずっとある。
まったく人に及ばないことは多い。とても、多い。
そんな状態で、自分がなにかをできる、なんて思えない。
運が良いとしか思えない。
意志を失ってしまうことが怖い。くじけてしまうことが怖い。
疲労すれば、頭は回らない。そのフラストレーションは、ずっと拭えない。なんとかしていくしかない。
恐れるべくは、自分からなにかを失ってしまうこと。
意志を失うとしたら、自分でそれを許すからだろう。
くじけるとしたら、自分でそれを許すからだろう。
いとうくんは、もっと報われるべきだ。いい思いをするべきだ。いろんな人と会うべきだ。そう言われても、自分にはまだまだ底も天井もなく、井の中の蛙に過ぎず、そして、なにもできない。
報われなくても、いいと思う。楽しく過ごすことができたなら。それだけでいいと思う。楽しいことは、報われることとは関係がないもの。
報われたいと思ったら、きっと、自分にそれをやめることを許してしまうんだろう。
まだまだ人生は楽しそうだなぁ、って感じです。
大志と共に海を渡る
まいにち体重計に乗らないと、自分のなりたい体重になることは、たぶんない。
近づくことも、遠ざかっていることもわからない。
自分の今の体重を知らなければ、理想体重を設定することもできない。体重という数直線の上で、その人はどこにも存在し得ない。
それでいいこともあるのかもしれない。知らない方がいいこともあるんだろう。
それが逃げでなければ、ということだけど。
***
自分の現在の能力を知らぬ人に、理想も目標もない。
砂浜から泳ぎ始めても、辿り着くのは元にいた岸なのだろう。
それでも、その人は”わたしは何処かに辿り着いた”と思うのかもしれない。
海の向こうにあるものについて、想いを馳せることは楽しいことだ。でも、実際にそこにいく人は少ないのかもしれない。
今いる場所が楽園なのなら、それが一番いいんだろう。
命を削って旅に出る理由は乏しいように思われる。そうしない理由は山のように思い浮かぶのに。
***
言い訳を始めたらきりがない。言い訳を感じている時点でわたしは弱い人間。言い訳を言い訳と思っていない人も世の中には大勢いるのかもしれないけれど。
言い訳を感じることもなく、そして、自分の中に予断のない人もいる。たぶん、おそらく、きっと。
そういう人たちが大志と共に海を渡っていくんだろう。
航海に出る理由は乏しいと上に書いた。
けれど、たった一つの『美しさ』が、人を動かすこともある。
たった一つの『歓び』、それで人が動くのに充分なのだ、とわたしは思う。
どうか、ご無事で。
よい人生を。
言葉を書かなくてはいられない夜
なんだか、文章を書かずにはいられない夜ってのがあって、今夜はそういう時みたい。
人の役に立てている感覚ってのは、気持ちがいいものだ。それによって自分が生きることができるというのは、格別のもののようにおもう。こんな気持ちになるなんて、本当に生きていて良かったとおもう。こんな気持ちになれる自分を、わたしは今までに知らなかった。仕事を始めて約半年、社員になって3ヶ月くらいが過ぎた。
何をやるのにも不安であるけれど、この不安を忘れてしまったら、わたしは仕事を任せてもらえなくなるのだろう。心配で心配で確認を尽くすくらいでちょうどいい。ここまでにありとあらゆる失敗をしてきたけれど、それでも、仕事を任せてもらえているのだから、わたしはとても運がいいのだとおもう。
しゃべることがができていることも含めて、なんだか不思議な気持ちになる。こんなに人の役に立てる自分を、わたしは知らなかった。いっぱしの社会人と言えるのかはよくわからない。まだ、恥を書く機会はたくさんありそうだ。現に今日もかいた。
自分にできることが、もう少しはっきりするといいのだけど。まだ手探りでやっていることが多い。何をするのにも不安だ、というのはそういうこと。これは確実にできる、ということはほとんどないとおもう。それでは、技術を持っているとは言えない。
間違えることを恐れている限り、間違えることを愚かだと思っている限り、わたしにはいい仕事はできないだろう。我を忘れて、自分をどう思われようが構わないと思えているときに、いい仕事ができているようにおもう。それをすることにだけ集中しているときにはいい仕事ができている。できないことに開き直るのではなく。することに、躊躇してはならない。どう思われようが、できるときはできるし、できないときにはできない。恐れることで自分の中に自分から隙を作ることの方が、わたしを失敗させる。
「言葉」を扱えるというのが、自分の強みだとおもう。それはコミュニケーションも含めて。こうしますよ、こうですよね、とか、こうしたいとか、こうするべきだ、とか、内部の言葉と表現としての言葉があるから、なんとかやっていけるんじゃないか、とおもう。この人がこういう言い方をするのは、こういうことだからだ、とか、人への配慮とか思いやりとか察したりすることも、仕事を遂行していくことももちろん、言葉によって駆動している。
そうできなかったら、たぶん、もうわたしは潰れていたとおもう。
この十年は無駄ではなかった。それによって得たものはたくさんあった。今は本当にそう感じている。失ったものもたくさんあったのだけど。それもまた運命だとおもう。運命であることも含めてどうでもいいことだ。
生きていることが、面白くて仕方ない。こんな気持ちになる自分を知らなかった。それは、ここまでの道のりを綱渡りにでもなんとか誠実に動いてきたからだ。こんな気持ちを直接共有できる人があったらよかったのだけど、そんな人がいたなら、この文章は書いていなくて、つまり、やりどころのない気持ちを言葉にしている今のこの文章を受け取っているあなたにだけは、そういうことも人生にはあるのだ、と知ってもらいたいのだけど、まぁ。
それが伝わらないということもわたしは知っている。喋れば喋るほど人に何かを伝えることは困難で、書けば書くほどに誤解を産むのが文章を書くということだから。
自分がやるのが合理的だと思えるのなら、なんだってできる気がする。そう、なんだって。最期まで自分にとっての「美」を追求し続けられたなら、きっとこの人生は、いいものになる。そう思う。