どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

敗者は、自分から選んで敗者になる

 私は、あるとき私に罹った劣等感に勝てなかった。そして、劣等感を回避するのに、私にとってとても残酷な方法をとってしまった。
 誰も私の人生に深く関与しようとしないことに、私は打ちひしがれていた。様々な人々に翻弄されることにも嫌気が差していた。
 私は劣等感に病んでいた。人付き合いはできないのではなく、しなかった。人と一緒にいると、私の劣等感が顕わになる気がしたからだ。それを認識することが、私はずっと怖かった。
 そうして、わたしの中に劣等感はないことになっていた。
 劣等感とうまく付き合えないことが、私の人生の決定的な間違いだったと今は思う。
 劣等感を抱く裏には、私の願望があったのだ。そのこととうまく向き合うことができていなかった。願望に気がつかず、見ようともせず、それが叶わないことを悔しいとも思わず、私は逃げた。向き合っていなかった。
 私には、本当にしたいことがあったはず。それを見て見ぬふりをしていたのだ。それをしているポーズだけをして、それに懸命にはなれなかった。
 そうして私は逸した。いまも逸し続けている。
 どうしたら自尊心を保てるのか、無意識に考えていたような気がする。しかし、劣等感と向き合わず、逃げ、自分の心の奥底にある願望を叶えようともせず、無かったことにしていては、自尊心を保てるはずがない。すべては悪い方へ転がっていった。自分を信じることも、人を信じることも、できなかった。
 自分を憐むことで、自分を成り立たせているような気さえする。そうやって、悲劇の物語の中にいることで、幸せではない自分を保っている。自分の間違いを認めないことで、自分は負け犬にもならず、その代わりに勝者にもなれない。一生そうなのだ。
 私は、認めなくてはならない。それから、やるべきことがある。
 自分が、幸せであるために。現実を取り戻すために。現実の中に、生きるために。現実に、生きて、死ぬために。このままでは死んでも死に切れない。きっと、浮かばれない。
 自分のことは、自分で決めるべきだ。
 自分のことは、自分で把握するべきだ。
 自分のことは、自分で掌握するべきだ。
 自分のことは、なるべく自分で支配するべきだ。
 
 人の言うことを参考にはしても、自分の意志を持ち、
 人を鏡として、自分をよく知り、
 人をテコの支点として、自分をよく動かし、
 自分のやる気を保ちつづけ、
 願望が叶うように刻苦勉励し続けるべきだ。
 
 人は普通、劣等感を感じたくないものだろう。劣等に感じることを、苦しいことだと思うものだろう。それを意識してしまっている時点で、私は、それと向き合うべきだった。ほんとうには素直ではなかった。こうしたい、こうありたい、ということを否定し始めると、人間は歪む。自分を押し込めることに慣れると、人は歪む。私のうちにあった、こうしたかった、という気持ちが私を焼いたのだった。
 そうして私は劣等を感じることに慣れていった。そのことをなんでもないと思うようになった。劣等感を肯定することを厭わなくなった。
 そうして私は敗者になった。
 わたしは、わたしの人生を豊かにすることに、いつも躍起になるべきだ。劣等感を受け入れたり、あるいはしたいことを見て見ぬ振りをすることは、私を不幸せにしかしない。
 闘わなくてはならない。
 幸せであるために。
 幸せであり続けるために。
 自分の劣等感を認めよう。そして、自分の劣りを認めよう。人との違いを自分に刻み、そして、なおかつ自分であること。あり続けること。生きてから死ぬまで自分に寄り添い続けるのは自分だけなのだ。自分を好きな自分でいること。好きなことをしている自分を好きでいること。
 そう思わせてくれる人と、一緒にいられたら、こんなにいいことはない。自分を負け犬にしておかない人は、いつでも魅力的だ。
 敗者は、自分から選んで敗者になる。何かを認めずに敗者になる。そこからしか、人はスタートできない。人生が終わるまで、人生は始まる。

できるかぎり幸せであるように

 わたしの生きにくさは、いろんな要素をはらんでいるはず。わたしはわたしを活かせないことにやきもきしている。いま自分がまったく幸せではないことにジレンマを感じる。どうあっても、人は誰でも幸せにあるべきだ。
 人は自分を、どう考えたっていい。その自由を持っている。でも、人にどう思われるかをコントロールすることは難しい。人が思うことを強制することも矯正することも困難なことかもしれない。
 自分をどう考えたっていいのだけど、そこには少なからず現実感というのがあって。たとえば、自分を身体の性別でないんだと考えることは可能だけれど、それが現実的にどうなのかはまた別のことだし、そして、どこまで自分がそこに真摯なのかはまた別のことだ。現実は確固として相変わらず現実なのだから。宇宙飛行士になる、と思ったって、いますぐに成れるというわけでもない。
 生きにくいと考えることもたやすいのであれば、またその逆も簡単なのかもしれない。なにかを捨てたら、なにかを得ることになるだろうし(例えば、自由とか)、なにかを得たら、何かを捨てることになる(例えば、時間とか)。
 何かに躍起になっている自分を、ぼくは愛おしいと思うし、誰かになにかを思われることに、ぼくは満更でもない。
 でも、だけど、そういうことさえも、どうでもよくなってしまう。この世界の中で、この宇宙の中で、自分がなんでもない──この世界のみんながそうであるように──ことだとわかっているものの、やはり、どうしても、自分にとって、自分は特別なものである。自分だけが、特別なのである。
 私が誰かを愛することをしても、それは自分があってのことだ。どうしたってそうだ。自分という人間がなければ、その誰かを愛している、という存在さえもない。
 誰かに愛されるとしても、私は、どうしても、その愛を、確かなものにしきれない。それは人が変わってしまうからだけではなくて、その存在を、確かなものにできないからだ。そういう存在も、人の気持ちも考えも思いも、どうにでもなってしまう。
 この世界のなにもかもは、確固たるものを信じられつつ、妥協され、そして、あやういバランスの上に成り立っていると、ぼくは知っている。儚いから美しいというわけではなくて、ただ、そうある。
 人の運命みたいなものは、どうしようもなくあって、でも、それを情動しているのは間違いなくその人自身で、なにかの思惑があるとしても、その人の縁を掴むのは間違いなくその人で、その人はその人の人生の役割を負っていく。それだから人生は面白いのに、つまり、その人がその人の人生を積み重ねていくことに人生の面白みがある──なんらかの自由と尊厳とともに──のだけど、その人生と人生の混じり合いのカオスにぼくはここ最近になってずっとたじろいでいる。
 ただ、好きだとか愛してるとか、そんなことでは片付けることができないなにかを人と人はいつも抱えていて、だから、ただ、一緒にいれたらいい、というだけでは片付けることができないのだ。
 人生は、もっとシンプルなはずだ。
 宇宙はもっとシンプルなはずだ。
 つべこべ考えずに、ただ、愛を表明していたらいいし、孤独を生きるのもいい。その相手が目前にいるということがすべてで、その隔たりはどんなに文明が発達したって変わらない。けっきょく、人と人のやることはずっと変わらないのだから。
 人生に於いて、自分の規定できる範囲は当たり前に決まっていて、そこに、誰の入る余地もない。ただ、自分のことを自分でやっていく、──できるかぎり幸せであるように──というだけのことなのだ。そういうシンプルさを常に念頭に置いておけたらいいのだけど。

なにかを為すこと

 なにかを得ることよりも、なにかをする、なにかを為すことのほうが、ずっと生産的で、人の役に立てて、心が穏やかになるのは、それが人に与える、ということだからだ。なにかを得ることは、得た時点ではほとんどなにも生まない。ただ自分が満たされるというだけなのだ。なにかを為すことで、人はなにかを生む。人に与える、ということは人によろこびを与えるということになりうるし、それと同時に自分の裡からよろこびをわかせることにもなりうる。
 しかし、人はなにもかもを為すことは出来ない。時間的な問題、能力の問題、意欲の問題、からである。だから、意識して、あるいは、無意識に選ばなくてはならない。なにを為すかを選ぶことは、なにを人や自分に与えるか、を選ぶことだ、とわたしは思う。それはときに自己満足に陥ったり、他者のみがよろこぶことになってしまう。本当に人が、心の底から他者や自己をよろこばせるなにかを為すことは、難しい。
 それを達成するためには、それを為すということを深く理解し、効果的に為すということなのだろう。人に与えることは、よろこびである。しかし、なにを、どのように与えるのかによってその効果は雲泥の差になる。下手をすれば、自己や他者を殺すことになる。
 なにかの効果を得るためにそれを為すのではない、と人は言うかもしれない。しかし、為すことのすべては表現であり、表明である。その、一挙手一投足や、あるいは、それをあえて(・・・)為さないことでさえも、その人の意思表示であり、なんらかの影響をその人自身の人生や周りの人の人生に与える(・・・)ことになる。道端で手を上げる様な些細なことでも、いまあなたがこの文章を読んでいることだって。
 なにかを得ることは、それだけではおそらく人を幸福にはしない。なにかを生産することにも、人の役に立つことも、心が穏やかになることも、本当にはたぶんない。ただ周りの世界や、自分の裡なる世界に、なにかが満たされるばかりだ。なにかを抱え込んだところで、身や心が重くなるだけである。
 それをつかってこそ、人生には意味がある。
 思い遣ってこそ、人生に意味はある。
 自分の為すことで人がよろこぶことはもちろん、ただ為すことであっても、自分の裡からなにかを効果することは、つまり、世界がなんらかの形で変わることは、人間にとっての歓びである。それだけでも、生きている価値がある。
 ただ居るだけでも、人に効果することが出来る場合さえある。その場合、その人は、その人格を以て、その場所に移動してきて、居なくてはならない。
 どんなに弱くとも、その人にはそこにいる意味がある。人は自分から弱くあろうとすることもできず、そして、人間はひとり残らず弱いからだ。完全無欠に正しい人間などおらず、皆、どこかしら間違っている。
 それでもその人は、そこにいる意味がある。
 なにかを為すことは、それよりも良いことかもしれないし、あるいは、何かしらの悪化を招くかもしれない。しかし、ただいるだけよりも、他者、あるいは自分自身により一層働きかけることは間違いない。そこで、なにをするかは、その人自身が選ぶことだ。それまでの人生や、感覚を、大いにつかって。
 人間のすることや、それに伴う感情に、確実なことなど何一つとしてない。ぼくたちは、いつも危うく歩いている。
 それでも、ぼくたちはなにかをすることをいつも強いられているし、そうしようともする。なにもしないことでさえも、なにかをしているのだ。どこかで誰かが見ているというわけでもなく、ただ、自分がしたいからするということでさえも、また他の誰かにとっての良いことかもしれない。
 可能性を求め続けるのなら、責任を負って為し続けることだ。そう言うことは簡単なのだけど、実際に追う責任は重く、そして、厄介なものだ。それから逃げ続けることはできるだろう。きっと。そういう人生もある。
 どれだけ人に与えることができるか、そして、すぐれた人格を持ちうるのか、あるいは、どれだけ幸福でいられるのか、は、なにかを為すということから始まるのは、間違いがないと、ぼくは思う。どこまでも為し続けるということでしかない。試行錯誤して、理解して、工夫して、期待して、やり続けるということでしかない。そうやって、人生を創っていくことでしか、自分の人生を生きるということはありえないとさえ、思う。