どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

二度と会えないひとに対する浮かばれない妄想について

 わたしのあたまの中の彼女が、今なにをして、なにを想っているかと、想像することはできる。だけれど、それらがすべてわたしの妄想に過ぎないことも当然わかっている。
 わたしが彼女を想っているように、彼女がわたしのことを想ってくれているとは限らないし、具体的に何かの行動を起こしたり、思いが溢れているのかもしれないなんていうのも、すべて妄想に過ぎない。そうあって欲しいと思うから、そう妄想しているのだ。すべては自分に都合よく考えているというだけで、実際に会ってみたら、肩透かしを喰らうんだろう。
 会えない間にどんどんわたしは妄想を膨らませてしまっていて、どんどん現実の彼女から乖離しているような気がしてしまう。そう思えているだけマシなのかもしれないけれど、それでも相変わらずに彼女のことを考えてしまう。
 例えば、こういう良い気候で静かな街を歩いているとき、美味しいものを食べようというとき、買い物をして面白そうなものを見つけたとき、好きな音楽を聴いているとき、面白い本を読んでいるとき。ふっ、と彼女のことを思い出してしまう自分がいる。
 完全に恋に落ちていることは認めよう。だけど、その気持ちをぶつける相手は此処にいない。
 二度と会えそうにない人っていうのがいる。二度と行けない場所もある。二度と感じることのない感情もある。
 彼女とまた時間を共有したいと思うけれど、それはたぶん叶わないんだろう。それはわたしが病人だからで、彼女と会うためにはまた病院に行くしかないからだ。
 彼女とは気持ちを共有していた、と思ってる。でも、その気持ちが、時間が経っても有効かというと、たぶんそんなことはないのだろう。人とひとの縁には、タイミングってもんがあるんだろう。あの時のあの場所だったから良かった「だけ」ということは往々にしてありそうなことだ。何よりも、わたしはあの頃以上にわたしのことを知られて、化けの皮を剥がされることを怖いと思っている。でも、そんなことを言っていても仕方がない。彼女のことを信じたいし、自分のことをも信じていたい。そうさせてくれる人だったから。だから、また彼女と会いたい。
 このままではまた病むだろうという感じがしている。
 冒頭のわたしの妄想はこういうものだ。彼女はわたしのことについて自暴自棄になっているんじゃないか。わたしの数倍は忙しい彼女が、折々にわたしのことで感傷的になるなんて、到底思えず、我を失うとも思えず、ただただ、わたしの取り越し苦労で、そうやってヤキモキしている自分に意味なんてない。そうなることが、どうしようもなくつらい。だって、ただの妄想に過ぎないのだから。その思い浮かべられた思考にはほとんど何の根拠もないのだから。ただ、わたしがそうであって欲しいという願望を頭に思い浮かべて悶々としているだけに過ぎない。
 早く楽になりたいのだけど、彼女に対するどんな行動も、間違ってしまう気がしている。というかやり過ぎという行動でしかなくて、でも、偶然に街で会う可能性なんてほとんどゼロに近く、そうして、わたしはしんどい。
 それでも、すべては思い込みに過ぎない。それでも、わたしは前に進みたいのだ。正しい答えなんてなくて、ただただ不器用で、自分に自信がなくて、その責任を負うことすら拒んでいて、だからわたしはとことんに自信がなくて。自分についてのすべての事象と感情はすべてわたしに拠っている。それは確かなのだ。今できる範囲でできることを、きちんと意思を持ってするのなら、きっと路は開けるのだろうけれど、なんだかそれも心許なく、知恵もなく、そうして、やっぱり挫けそうになる。
 恋をすることはこんなにも狂おしいのに、なんでこんなにも爽やかな気持ちになっているのか。どこかで確信していることがあって、それはまぎれもなく自分の気持ちのことで。どんな彼女も受け入れることができるだろうと何となく思っているのに、その肝心の彼女は此処にはいなくて、だからわたしは悶々としているがそうしていてもこの気持ちが伝わるわけもなく、ただただ、自分と彼女を愚弄しているに過ぎず、そうして時間だけが経っていき、この熱も、きっと醒めてしまう。
 また、自分には恋ができるんだろうか、と思う。こんなにひとを好きになるだろうか、と思う。こんなにも受け入れられることも、受け入れることもあるんだろうか、と思う。そういうことさえもわたしの思い込みに過ぎないのではないか。そう思って、やっぱりわたしはやみの入り口に立っていると自覚する。
 確認しないことにはわたしの妄想が成仏することはなくて、そして、具体的に彼女を目の前にすることは、かなり困難だ。浮かばれない恋は、きっと、人を壊すんだろう。彼女もそうであるのなら、わたしは強硬手段だって取れるのに彼女の今の情報はなにもなくて、だから、彼女は今のわたしにとって具体的になってはおらず、そうしてやはりわたしは妄想に溺れ、その思い浮かぶ妄想を無意味だとヤキモキして、そうして、やみに入りつつある。

もっともっと自分を困らせる

 諦めているというよりは、困っていないということが問題のような気がしてる。
 そういう風に思うようになったのは、あるファッションについての言葉を何かで読んだからだ。つまり、ファッションに興味がわかないのは、「場」に興味がないからだ、というはなし。行きたい「場」に合うように人はファッションを磨く。
 男の人にファッションに興味のない人が多いのは、ファッションを磨かなくても居られる場が多いからだ。それで困らないからだ。人に見られているという発想がそもそもないし、来ている服によって品定めされるという場面は普通には少ない。それは、女の人と比べて、ってことになるけど。
 そして、ファッションに興味がないというよりも、それは、それで、困っていないということなのだろうと、ぼくは思う。いや、困らない範囲で済む場所や状況にいたり、そういう友人といることを無意識に選ぶのだろう。そこら辺に人と人のカーストが成り立って隠れているような気がするけど、というかそこに超えにくい壁があるような気がするけど、それは、それで困らない範囲でやっているのだろう。
 おくりたい人生に合うように、人は自分が困らないようにする。正確には、困ることを無意識に避けるし、困るということ自体を避ける。
 パーティピーポーを是が非でも避ける人もいるし、その逆もまたそうするんだろう。勉強しなくても困らない、と決めてしまえば人はそのように生きるし、与えられた給与の範囲でやっていこうと決めたなら、それで困らない“ことにする”。そうやって困るような選択をあえてしない。
 問題は、「困っていない」ということだ。それは、諦めてさえもいない。諦めることさえも放棄してしまっている。敗北感を味わいたくないのかもしれないし、何かを羨ましいと思う気持ちさえも、鬱陶しいのかもしれない。
 そうやって人は自分の人生を造っていく。困らないように。諦めることのないように。あるいは、諦めの効くように何かの言い訳を用意して。全部が無意識におこなわれる。
 思えば、困っていないこと。そういうことが、私にはたくさんある。女の子と知り合わなくても、外国に旅行に行かなくても、楽しい仕事がなくても、気に入った服を着なくても、困っていない。挙げればキリがないくらい、困っていないことが、この世界にはある。
 でも、自分を困るようにすることは、良いことなんじゃないか、と思う。もっと嫉妬に狂ったらいいし、もっと自分に素直になっていろんなことに執着したほうが人生は楽しい。いろんなことを無意識に諦めてしまうよりは。困ってすらいないことに、楽しいことはたくさんあるだろうから。困ることすらしない、できない人生なんて、なにも楽しくはない。
 恋人が欲しい、こんな仕事がしたい、お金が必要だ、子供が欲しい。自分を解放したら、もっと、自分には自分を困らせることができるだろうに、そうはしないようにしている気がする。だって、そうなってしまったら、困るから。でも、困ることのなにもない人生ほど、つまらないものはない。
 人に困らせられるよりも、自分から困ったほうがぼくには気が楽だ。挑んだ困難は乗り越えようと思えるけれど、不意に降ってくる困難には構えもなく対処の視点も乏しい。やる気も出ない。そして、ある程度困っている人にはそれ以上困りようがない。だって、もうすでに困っているから。その困難さに大小あれど、結局は困っているのだから。いつだって、なにかに困っていたらいい。できたら、自分の用意したことで。
 困っている自分に平然としていたい。平気で困っていたい。それが済んだらまたつぎの困りを自分に課したい。今の世の中は、困りを避けることが簡単になり過ぎている。いろんなことが便利になったけれど、そうやって、人のこころは貧しくなったのかもしれないと、思ったりする。

自分の人生を生きること

 わたしはぜんぜん現状に抗っていない。いま現在の自分を諦めてしまっている。ある種、今の自分に対して甘えている。そういう状況になったすべての事象や人の思惑や意図や自分の意思の弱さに甘えている。自立心・自律心がないともいえる。何もかもを受け入れてしまっている。だから、わたしはこうしている。こうなっている。
 わたしは現在の自分への責任を放棄してしまっている。自分で自分という人間の責任を負っていない。自分のことをどうでもいいと思っているのでは。現在の自分の状況を人のせいにして、それで自分のことをどうでもいいことにしてしまっている。たぶん無意識にそうしている部分もある。こういう現状でいいと思っているのだろう。今の自分のあれやこれやは、人がそう仕組んだのだから、自分に否はなく、したがって自分のすべてが自分のせいではないことにしている。そうやって現在の自分に抗っていない。
 抵抗するべきなのに。満足のいく自分なんていつでもどこにもいないし、どうあったっていないのに。
 人の言いなりになる事が相手のためになるとは限らない。自分のためになるとも限らない。自分のためにならないことの方が多いかもしれない。人のいう通りにしたって、そこに自分の意思がなかったら、それはその人の行動の代替でしかない。その人の思考の延長でしかない。その行動はその人の思惑でしかない。その人の思考に加担しているだけ。
 そうやって自分という人間を造ることになってしまう。そうやってできた人間は、ほとんど自分という人間ではない。
 人の操作・規定・定義したわたしが、自分そのものというわけではないだとか、それは他人の決めた人間でしかないだとか、そうやってできた自分を悔いても、時間は戻らない。人の印象を変えることは大変だし、時に不可能だったりする。そうやって自分ではない人間が出来上がる。
 現状を受け入れてしまう。期待を受け入れてしまう。それは自分にとってとてもよくないことだ。期待には必ずしも応えなくてもいいのだと知るべき。
 人の期待に応える事が、いつも自分のためになるとも限らないし、自分のためになるとも限らない。時に人は自分を利用しようとしているのだ。そのことに気がつくべき。あるいはこちらの道を塞ぐことで得をする人間がいるということに気がつくべき。
 自分をもっと良くしようとしていない。少しでもマシにしようとしていない。こうありたいという自分を磨き続けるべきだ。そして、こうありたい自分を追求するべきだ。それを踏まえて行動し続けるべきだ。周りにいる人にもそういう人を望むべきだ。
 現状をただ受け入れることは、思考していない。行動も放棄している。ただ生きているだけ。死んでないだけ。抗え。自分に都合よく考えているだけ。行動することを怠けている。
 自分の願望にきちんと気がついて、きちんと向き合い、叶えた人だけが、自分の人生を生きることが出来る。そのためになら、なんだってするべき。人の迷惑にならない範囲で。
 現在の自分を疑い続けることは難しい。なぜ今現在の自分がこうなっているのかに気がつくことは難しい。それでも、思考し、行動し続けるしかない。そうでないと、簡単に人の人生を生きることになる。
 わたしは、自分の人生を生きたい。