どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

死について、あるいは生きるについて

 今日は死について書こうと思う(あるいは生きることについて)。当たり前のことだけど、人は必ず死ぬ。生きていれば死ぬ。私が敢えていうまでもないことだ。その日はあしたかもしれないし、50年後かもしれない。悔いの無いように生きたほうがいい、という事はとても簡単だけど、実際そうすることができる人は少ない。いろんなことに於いて妥協してしまうこともあるし、才能あるいは努力が足りなくて、あるいは運や縁が及ばなくて、うまくいかないこともある。なんでも自分の思う通りにいった人生なんてあり得ないし、つまらない。
 今、家族が死の淵にいる。来週まではいつ病院に呼ばれてもおかしくないという状況。そう医師に言われた最初の晩はほとんど眠ることができなかった。
 とにかくいろんなことを考えてしまった。今できることはあまりに少なく、いろんなことが巻き起こるであろうこれからのことを少し考えてから、昔のことを考えそうになって、まだ早いと自分を諌めた。
 身近な人が死ぬということを経験してはいるものの、こんなに近い家族が死ぬかもしれないという状況になったのは初めてだった。うろたえている自分がいるし、何してても落ち着かない日が続いた。
 人が死ぬということ。そこに居て欲しいということ。いるといないとでは大違いである。ここ数ヶ月の入院生活でその多少の準備と心構えをしてきたつもりでも、はっきりと差し迫ると狼狽してしまう。予感はずっとあったのだ。いつこの世からいなくなってもおかしくない。二度と話すこともできないし、笑い合うこともないかもしれない。
 人が死ぬ、という必然は、簡単に迫ってくる。どんなに頑張って生きても手を抜いても、人のためになってもならなくても、いつかは死ぬ。死について書いても、ありきたりのことしか言えない。死は当たり前だから。誰も逃れようがない。いつか誰かが言ったことを繰り返すだけ。
 ただ死を想う。ただ生きるを想う。
 いなくなってしまうのだ、あぁ。
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 父の死を連想させる行動を互いにするたびに、母と二人、不機嫌になっている。その度にはっと我に返って、励まし合っているような気になる。たぶん母はそうは意識していない。ときどき笑ったり、不安そうな顔をしたり、勝手に不機嫌になったり。病院に行く段になると険しい顔になる。緊張しているのだ。これが最後かもしれないと毎回思う。
 きょうは顔いろの良かったきみ。いつまで生きることができるだろう。なんだかキラキラしているような気がする。
 お見舞いに行ったら体調の悪くなったわたし。外を歩くたびに首が痛む。どこかわたしも緊張しているのだ。