私が変わることによってただ私の世界は変わる
ぼく達は、みんな多かれ少なかれ変わろうとしている。人の本能としてその細胞もろとも、変わろうとしている。変わらないなんてあり得ない。いつだって現状維持からの脱却を試みている。それは、弱さから強さへの変化といってもいいし、成長ともいう人もいるだろう。退化していないとしたら、あなたは変化している。人は生きていれば必ず歳をとり、衰えていくのだから。それは逃れようがない。変わること、変わり続けることのなにがうれしいかというと、変化はいつも良いこととは限らないが、そのままでいることの方がよほどリスキーなのである。危険を侵さないための本能なのではないか。それは細胞に限らず、人格や性格、嗜好だってそうである。
変わってしまう恐怖、変わらない不安、変わろうという勇気。人と出会うことで変わってしまう自分なんて些細な自分であって、不安に思うことなどなく、ただ自分はあるべくしてある。どんどん変わっていったらいいし、それを受け入れていくべきなのだ。変わり続けてそれでも自分だと思える自分こそが、本当の自分なのではないか。もっと自分に情報を入れるべきだ。もっと表現し続けるべきだ。
自分だけが要因で自分が変わるということなんてほとんどない。どんなことにもなんらかの影響を理屈することができるだろう。目にしたもの耳にしたもの手に触れたもの脳に保存されていたもの、その全ては外的要因として自分に迫ってくる。なにをしていても不十分な自分を自覚するばかり。なんにだってなにかしらの影響を受けて私たちは思考し、発想の源になっている。何かに影響されて自分が変わったようにみえても、それを取捨選択しているのは他ならぬ自分である。得た情報の全てに影響されるわけではないし、私たちは影響されたいと思って影響されている。意識的にせよ、無意識的にせよ。
こう変わりたいと思うことと、変わってしまうことは違うのではないか。変わる自分をあなたは許すだろうか。本当に変わりたいのか。変わっていいのだろうか。本当になりたい自分とは、どんな自分なのか。
私が私の世界を司り、私が変わることによってただ私の世界は変わる。世界をどう捉えるか、どう解釈するかは他ならぬ、自分なのである。努努お間違えなきよう。絶望も希望もきっとそこにある。変わろうという時に、人は変われるはず。そう自分が許すことができたなら。