どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

父親、その乗り越えるべき人

 父親の様々なことで今、悩んでいる。
 そんな中で耳にした、河合隼雄さんの「男の子は父親をなんらかの形で殺すべき」という言葉に励まされた。この言葉は映画『ゲド戦記』の頃に宮崎吾朗監督が河合先生にかけられた言葉だそうだ。映画の中で吾朗監督は父殺しを描いたわけだけど、そのことの面白みが伝わる人にはこの言葉は訴えるものがあるかもしれない。
 「殺す」というのは文字通りの意味ではもちろんなく、なんらかの形で、だ。圧倒的な力量を見せつけるのでも良いし、しっかりしているところを見せるのでも良いのかもしれない。なんらかの形で、殺すのだ。映画を以って吾朗監督は、父親殺しをしたかったのかもしれない。そこには鈴木敏夫さんという裏で糸を引いている人がいたわけだけど。映画を完成させた、ということで、そしてその後の作品づくりを通して、ある種、彼は彼の中で父親を殺したのかもしれない。
 今、父宮崎駿が作品を創っている横で宮崎吾朗監督にCGで映画を創らせる鈴木敏夫という人は策士である。只者ではない。ジブリに詳しい人には、わかりきっていることだが。
 本題から逸れた。
 父親を乗り越えることでしか、人の未来はない。有名無名問わず、父親の影というのは、男には大きいものだ。遺伝子的には自分の半分を造っているともいえる。父親というものはどこまで逃げても感じてしまうものだ。たぶん、自分が父親になったら感じるだろうこと、それは子供の中に自分を感じることだ。それは歓びであり、そして、苦悩なのかもしれない。
 父親をまず乗り越えるべきで、その上で自分に挑戦することができるのではないか。父の呪縛は良い方に傾く時もあれば──それはあるいは庇護として──、足かせになったり、厄介ごとになってしまうこともあるのだろう。遺伝的な繋がりを、僕たちは超えることができない。その上で、一緒に生きて薫陶を受けたのなら、尚更だと思う。
 父親のことでいま悩んでいる。どうも依存し過ぎなのだ。父親も私に依存しているし、私も依存し過ぎているのだ、と気がついてしまった。距離感を見誤っているような気がしてならない。配偶者は選べるが、親を選ぶことはできない。父のことは母に任せた方がいいのかもしれない。私は父親のことを考え過ぎている。自分のことがおろそかになっていると感じる。
 それは自分が作った言い訳なのだ。父親のことを考えているうちは、自分のことを考えなくても済むのだから。そうやって、私は自分の大事なことから逃げているのではないか。
 要は父のことを考えることで自分を守りたいというだけなのだ。安全安心、なのだ。そして、それでは打たれ弱い。自分しか、自分を守るものがないから。壁がないからだ。父親を乗り越えた先には、父親という壁がある。
 結局、私は「自分可愛い」のだ。自分をなんとか正当化したいのだ。でも、それでは自分の本当にしたいことはできない。
 父親を乗り越える。ひいては殺す。殺し損ねるということは、自分を殺すということだ。殺るか、殺られるか、なのだ。乗り越えるか、押し潰されるか、なのだ。
 僕は乗り越えるほうの未来を選ぶ。全て僕に起こる事象は、僕が成長するための布石だ。一足づつだ。考えなくてはいけないこととは、きちんと向き合わなくてはならない。父のことも含めてね。
 「逃」げることは、簡単である。「挑」め! 長生きして欲しい。乗り越えるためにも。