どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

「生きたい!」という気持ち

 一度ひとが死の淵まで逝ってしまうと、人格が変わるということがあるのかもしれない。ひょっとすると、『生きたい!』という気持ち──それはとても強い気持ち──が、人を欲望に駆り立てるし、ありもしないことを考えついたり、妄想に走ってしまうのかもしれない。そういった強い『生きたい!』という気持ちに私は当てられてしまったのだった。
 父をなんとかしたいという気持ちも湧いてくるし、でもどうしようもないという気持ち。『生きたい!』という気持ちや行動を簡単にはスルーできずにいて、ずっとつらい思いをしてしまってた。いっそのこと楽になりたいとさえ思った。ここ数日はいろんなことを放棄してしまってた。生きるのに最低限の行動だけをしていたように思う。
 当てられてしまったのだ。『生きたい!』という気持ちはとてつもなく強く、その表現も過剰と言ってしまうにはあまりに滑稽なのだけど、とても辛辣なものだった。
 母なんかはそれをうまくかわすのだけど、私はかわしそびれてしまった。母のタフさには目を見張るものがあって、私のか弱さ、打たれ弱さはオリンピック級である。こんなにも脆い人間が世の中でやっていけるのか、と思うけど、実際にやっていけていないのだから、その通りなのだろう。鬱々としたこの体躯を活かす方法などないだろう。強くあらねばならない。私はこの父親の子にして、この母親の子なのである。
 父は初めから私の方を見ていたし、私を頼りにしてくれていたのかもしれない。それでも『生きたい!』という気持ちの表現は突拍子もなく、理解を超えるものだった。私は父の意向に添えなかった。父がこれから生きていくためにはそうするしかなかったのだ。
 そのことはつらいことだった。父の意向に添えないことも、こんな風になってしまった父を見るのも、こんな風に考えてしまう父を見るのも。
 このことの教訓なんてないし、このことは何かの布石ではきっとない。ただ父は父として生き、主張し、その希望を叶えようとしたに過ぎない。これを乗り越えたところで、私の何かが変わるわけでもないし、何かに気がつくわけでもない。ただ父は父として生きようとしていて、それに私は応えようとしているというだけなのだ。
 このことの一連を通じて成長しようなどと思うなかれ。全てが過ぎ去った後には何かが残るかもしれないが、今はただ、私は私のために、父は父のために生きるべきなんじゃないか。
 起きたことにはいろいろな解釈が可能である。そのどれを信じるかはその人次第だ。父の思い込みを外からの言葉で外すことだってできるはず。それがたとえ誤魔化しに過ぎないとしても。
 『生きたい!』という気持ちの裏には、死ぬかもしれないという予感がきっとある。とりあえず、その予感だけでも、言葉で以って緩和できたら。私にはそうできるのだから。
 今はただ、生きたい。