どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人生を賭けた肯定であるところの、恋愛

 ある瞬間にときめいたからといって、また別の瞬間にときめくとは限らないかもしれない。いつでもときめいているという保証なんて、たぶん、どんな人に対してもない。ずっと一緒にいたら、いつかはそうでなくなるかもしれない。
 もしかしたら、それはときめかなくなるのではなく、別の形になったのかも。それはまた別のときめきなのかもしれない。
 それでも繋がっているのが理想的夫婦で、そして、なんらかの形でいつかは別離はやってくる。生きたまま別れることもあれば、死が互いを別つかもしれない。たとえどんな状況であっても、冷めても冷えても、繋がり続ける、支え続ける、ということの尊さ。
 いつかは僕も誰かと繋がる日がくるかもしれない。
 その時に働くであろう、不思議な力を、僕はまだ知らない。
 最近になって、私は母の覚悟を知ったのだった。
 この二人を繋いでいるものを僕も信じたい。
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 人と接する時に、形を変えていろんなトキメキを感じることができるなら、どんな人でも構わないかもしれない、と言えてしまいそう。人の良いところを見出す能力を磨いていきたい。悪い人ではない、というだけではむしろ良さに欠けるのかも。そして、無味無臭の料理の味の評価をすることはできない。
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 恋愛をしないということは、人生に自分を賭けていないということだ。人に好かれるということは、究極の認証である。これ以上の人間肯定はない。人を好きになるということは、人生を賭けた肯定である。
 この極限の肯定を、僕はしたい。そういう人と出逢えたなら、こんな喜びはきっとないだろう。そしてその人に肯定される/肯定され続ける自分でありたいとも思う。そう、うまくはいかないかもしれないが。
 安易な肯定なんていらない。人生を賭けるというのも重いかもしれない。だけど、きちんとドキドキして、考えて、行動して、その上で肯定されるのなら、そんなに嬉しいことはないだろう。そして、自分もそのように肯定するのだ。
 昨日まで、一瞬のトキメキを持続させ続けるのだと思っていた。でも、人を肯定するということはもっと違う次元なのかもしれないと、今日思った。これも変化である。また別の見方をすることができたのだ。
 私は認められたい。人として。そのためになら、できることをするだろう。何が私に足りないのだろうか。おそらく、ここに普遍はない。自問している。行動することが肝要であることはわかっている。まだ、あと三歩くらいある。