どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人生なんて、わからないものだ。”真っ当に”生きるのであれば

 唐突だが、性の話。
 人は、人や社会からの影響がなくても、人間を産みたいと思うものなのだろうか。生物として繁殖・出産の機能を使いたいと思うものだろうか、使うべきと思うものなのだろうか。こういう書きかたをすると女性についてだけ言っているように感じるかもしれないけれど、男についても同様に思っている。単に性欲だけの話(もちろん、それも含むが)ではなく、人間を産みたいと(そして育てたいと)いうことは、人間の本能として備わっているものなのだろうか。
 多くの人がそうであるかもしれないが、私の性の目覚めは風呂でだった。性器が露出してそこにあるという状況は、自慰に目覚めるのに必然だった。そうして多くの人がそうであるように、性に興味を持っていったのだった。と言いつつ他の人が実際にどのように性の道を歩んで行くのか、私は知らないし、興味もないが。しかし、その過程に外部の影響はほとんどなかったと記憶している。自分のココがこうなるということは、きっと男女間の対称性からいって、私の異性*1もココを使用するに違いないだろう、形状を考えると挿入するのではないか、というように考えていった。そうして、この先に妊娠があるのではないか、ということにも思い至った。どうやってそう思い至ったかは覚えていない。
 人によっては、本や雑誌や漫画から学ぶこともあるだろうし、この情報の溢れた社会では、出会わないほうが難しいかもしれない。ちょっと興味を持てば、”それ”を得ることは容易いのだ。私がそうではなかった、というだけでは早計なのだけれど、人間には”どこまで”備わっているものなのだろう。私だって記憶にないだけで、”その出会い”を隠匿しているのかもしれない。それを隠さねばならないという勘も同時に働いていたのだから。要は記憶を抹殺している可能性だってある。恥ずかしいから。私は下ネタが苦手だしコンプレックスがある。
 性的なものはとにかく隠さねばならないのに、繁殖・出産のことを大っぴらにするところにこの文化の面白いところがあると、私は思うのだけど。
 性交したいという気持ちには、どのくらい繁殖のことが含まれているものなんだろう。本能としてそういうものが備わっているんだろうか。ただ気持ち良いから、あるいは気持ち良いだろうという想像だけで、それだけで性交にまで人は至るものなんだろうか。社会的にそういうものが隠匿されつつ、奨励(?)されていることはわかる。とにかく、良いものだということになっている。特に男性の間ではそうらしい。
 確かに私の中には子供が欲しいとか、育てたい、という欲求がある。あるのだが、それは自分の将来や老後のことを考えているというだけなのでは、と訝しがっている。あるいは単に好きな人と交わりたいだけなのでは、とか。セックスは愛の証明であると、誰が決めたんだろう。その人はきっと、とても賢く、そしてすけべだったに違いない。自分の子供は自分の遺伝子のコピーであるという見方もできるかもしれない。子供を作り育てるということは、自分の遺伝子がそのあいだ生きていくということでもある。不死は人間には今のところ備わってはいないが、その代わりに繁殖している、という見方だってできるのかもれない。
 伴侶あってこその、愛であり、繁殖・出産であるのにその思考を放棄しているのは、私には今のところそういった出会いがないことに由来している。愛する人があったら、その人との間に子供を持ちたいと思うのは、当たり前……なのだろうか。やはり、そこには性という魅惑があるのではないか。
 私が知りたいのは、子供を持つということが、どこまで人間の本能で、どこまで社会的なことなのか、それは本当に必要なことなのか、ということだ。そんなこと自分で決めろや、ということではあるが、あまりにも判断材料がなさすぎる。子供を作るために結婚するわけにもいかない。当たり前のように皆、理由なく好きな人と結婚して、子供を作って死んでいく。まるで人生においてやるべきことがないかのように。まるでそれが人生においてやるべきことであるかのように。本当に子供を作ることは、正であるのだろうか(性ではあるが)。正しさは人によって違うのはわかっている。でも、人生の一大事業として、様々なことを犠牲にして負うほどに、それは良いことなんだろうか。正しいことなんだろうか。
 人は経済的な理由から結婚・出産を断念することもある。そして、おそらく国という規模では経済的な理由から結婚・出産を奨励される、ような気がする。そこにはどの程度人間の本能の入り込む余地があるのだろう。みんな自分の良いように言ってるだけなんじゃないの。そのどこに乗るのか、ってだけな気がする。そこに正しさなんて、あるのだろうか。どう生きたってそれなりに苦労するのが人生で、その負荷なんて人や時代によって違うはずであるのに、なぜ当たり前のようにそうするのか。そうすることが当たり前だからなのだろうか。
 人生なんて、わからないものだ。”真っ当に”生きるのであれば。繰り返すが、私は子供が欲しい。でもそこにはたくさんの疑問が残っている。まだ、考えは足りない。

*1:敢えて自分の性別を隠して書いてます。