どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

愛すること、そして幸せになるということ

 父のことを、親としては愛している。それは間違いない。でも、人としてはそうじゃない。そういう線引きをしていいのか、自分でもよくわからないでいる。
 配偶者は選べることが多いけれど、子供が親を選ぶことはできない。親の人格を変えることは子供には難しい。言って聞かせることはできても、大きく変わるわけではない。
 父親のことを、尊敬していない。それは病気どうこうではない。それでも彼は人間で、私の父で、だから、愛している。こういう場合、「愛すること」は極端に難しい。嫌いになることもできない、見捨てることもできない、かと言って入れ込むこともできない。複雑にさまざまなことが混じり合っている。どうしようもないことが、世の中にはある。愛は、地球を救わない。
 父親を愛していることは確かだ。でも、そう思いたいのかもしれない。できることなら、なるべく、幸せでいて欲しいと思う。でも、たぶん、そこには私は居たくない。
 父親の考えの甘さにうんざりするが、父親は父親なりに考えを尽くしているつもりで、それは私も同じで、つまり、私だって誰かにうんざりされているのかもしれない。父親が正常に考えることができなくなっているのを見ると、自分だって正常ではないのではないか、という気持ちにどんどん入り込んでいってしまう。父とともに、狂いつつある。
 こんな人間が、幸せになれるのだろうか、というと、たぶん世間は幸せにしてくれる。かもしれないし、そうでもないかもしれない。そこにはたぶん依っていない。テンプレートにはめ込めば、きっと、人は簡単に幸せになる。
 父親への気持ちをどう持っていったらいいのか、皆目わからない。愛していることは間違いない。大事な人であることも間違いない。幸せであって欲しいとも思う。でも、彼は幸せであることを放棄しているように見えてしまう。それが、とてもつらくて、ここ最近はずっと目を背けている。自分でも、どうすることが自分たちの幸せなのか、わからない。自分の幸せだけを追求するのであれば、そうすることもできるのかもしれない。でも、そうはできない。制御の効かなくなった父を、どうしたらいいのか、わからないでいる。誰も、幸せにはなれないんじゃないかと思う。そこには、何のテンプレートもない。思うに、かなりまずい状態になっている。
 幸せ、ってなんなんでしょうね。それを自足で見つけるのは、とても、難しい。愛は地球を救わないし、幸せが落ちてるわけでもない。なるようになる。考えを尽くして、愛を尽くして、幸せを探して、まだ、生きる。