どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

文章を書くにあたって

 僕のことを成長させてくれるのは、いつも、真っ当に僕のことを見つめ、僕のことを思い、NOと言ってくれる人。そういう指摘を受けるたびに私はもっと良い文章を書こうと思える。
 なんの責任もないハートやお星様では、そんな感情には成り得ない。より一層自分を引き締める。自惚れるなよ、という感じである。
 自分の書いた文章に、自分なりの評価を下せるようになることはとても難しい。常に世界と自分の感覚の間には隔たりがある。それは当然のことである。私の文章を読む人がみな世界の中心というわけでもない。そして、そこまで評価されるほどのものでもないと、自分では思っている。
 文章を精魂込めて書きたいと常々思っているけれど、私のその精度はまだまだだと思う。まだ先はある。優れたものを書く人はいくらでもいて、その人たちと私を比べるのは百年早いと思っている。
 それでも、と思う。限界を越えようと、自分をはみ出そうと思わない限り、自分を超えていくことなどできるはずがない、と。
 自分の練成には疑問の余地がある。自分のスタンスをどう持っていくべきなのか、今だに不明なところは多い。
 八方美人になっても自分がつまらないし、人に読まれないものを書いても虚しいという気持ちも少しはある。自分という人間が無条件に面白いというわけでもない。弱者にはニッチを突き詰める道しかないこともわかっている。そちらはそちらで、また藪である。自分の中には王道を往きたいという気持ちも捨てきれない。
 自分の言いたいことを、なるべく多くの人にきちんと伝わる、柔軟な文章を書けることが望ましいと思っている。その境地にはまだまだ達していない。
 どこまでも満足しない人だけが、より高いところに行けるのだ、と肝に銘じている。