どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

曖昧に書くということ

 書いたものについて、どう受け取られてもいい、俺はとりあえず書きたいように書いたぞ、っていうのは、やっぱり逃げで、やはりある程度は書く責任はあるのだと思ってる。
 どちらにも解釈できるということをあえてするのであれば別だけれども、曖昧な書き方をして逃げる、あるいは投げ遣る、というのは、書く態度としてどうなのか、と思う。あんまりやる気ないんじゃないの、と。そこは真摯でないといけないんじゃないの、と。
 厳密に書くことは難しいことだけれど、できないことではない。その一方で、曖昧な書き方を好む自分もいる。解釈の余地が残っているというか。その締めどころ、緩めどころなのだと思う。余韻を残したいこともあるし、締めるところは締めるべきだし。
 解釈できてしまうのか、解釈させる選択させる、のか、ということの違い。自分の文章を読み返すと、曖昧になっているなぁと思うことはしばしばあって、そのすべては解釈「できて」しまうことなのだと思う。それでは人にうまく伝わらない。
 どこか綱渡りをしている気分で書いていて、伝わっているのだとしたら、たまたま上手く書けた、自分の文章の欠点に気がつくことができた、というに過ぎなくて、自分に上手く書く能力や気がつく能力があるのか、というとそれはよくわからない。
 だから、自分には校閲は向かないな、安易にはできないな、と思ってる。
 掌編について書いておくと、なんとなく「この感じ」を書くのには適しているかもしれないけれど、それがどのくらい読んだ人に伝わっているのかは、ほとんどわからない。なんとなく書けてしまう、書いてしまうことは危険だと思う。そんな心持ちでは「自分の伝える」というスキルの行く先を考えると不安になる。書くに連れて、いろんなことが曖昧になっていく、あえて曖昧にしていく感覚があって、ちょっとヤバいんじゃないのか、と思ったりする。そういう逃げ方もできてしまう、許されるのが創作だと思う。なんかよくわかんないけど、良さげなことが書いてあったなぁ、というそれだけで評価されてしまうかもしれない、という恐怖を大げさでなくぼくは持っている。そして、それはもっときちんと書いて成長していきたい自分にとっては良いことではない。