どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

真っ当に迎える死について

 生きてると、なんて、今の自分のことを形容していいのか自分にもよくわからないけれど、とにかく、生きてると、感じることがあって。人は当たり前のように死ぬし、そしていつ死ぬかなんてわからない。たぶんこれを書いているぼくも、これを読んでいるあなたも、そのことについて無自覚なんじゃないか。この文章に触れているこの瞬間にそのことを考えたとしても、あした起きたら、いつか死ぬことなんて忘れてしまう。そういうものだと思う。そもそも死ぬことを意識して生きることは難しい。死から目を背けて生きることは当たり前だと思う。そうしたい気持ちはとてもよくわかるし、ぼくが実際にそうだから。
 ぼくが生まれてから今までにしてきたこと、これを読んでいるあなたが生まれてからしてきたこと、すべてに意味があるような気もするし、意味なんて全然ないのかもしれない。自分としては、意味のあったことだと思いたいのだけど、それを世間が、社会が、地球が、宇宙が、どう捉えるのかは、また別の話だと思う。
 ぼくが一番恐れていることは、永遠の淵において、自分のしてきたことを情けないとか、くだらないとか、しなくてよかったんじゃないかとか、もっといえば、生きていても仕方なかったんじゃないかと、思ってしまうことだ。極端に言ってしまえば、そう思わないことだけが人生の命題であるのだと思う。
 そして、いま自分が死ぬとしたら、そう思ってしまうんじゃないか、と薄っすら思っている。それは別に世間的な自分の価値みたいなのもを自分で蔑んでいるわけではないし、自分を貶めているわけでもない。ただ、いまこの瞬間に死んでしまったとしたら、自分のことをどう思うんだろう、ということで、そこに思い浮かぶことは、悔いだとか、なんかそんな気持ちなんじゃないか。
 楽しい気持ちのまま死んでいく人は少ないし、きっと、悔いは残るものだろう。人の役に立つことが人生の全てではないとぼくは思う。自分を殺してまでするべきではないことだってある。そう思ったって、人への奉仕や、人の役に立つことの意思の尊さは全く減じられないとぼくは思う。すべての人に適応できる幸せも価値観もない。
 ただ、“その時”にどう思うんだろう、ってこと。
 人のしていることはすべて意味なんてない、って、儚げな結論に落ち着くことは簡単だと思う。そして、それは終着点として落ち着く感じがするし、美しい気もする。なんか、腑に落ちる感じがある。
 でも、意味のない人生なんて意味がない、とも言える。楽しく生きるにはどうしたらいいんだろうって、厄介ごとをどう乗り切ったらいいんだろうって、人と共に生きる事を、どうやって生きるのかを、あまりにも受け身で生きすぎていて、ぼくは……。
 このことの結論を出す気はないし、これから先にこのことについてどのくらい考えるかなんてわからない。悔いのない人生を、なんて大仰なことを言ったって、たぶん、悔いは残るのだろう。そういうものだと思う。でも、できる限りのことをしているかって、たぶん、違くて。生き尽くしているかって、たぶん、そんなことはなくて。
 人が産まれて死ぬまでに、どんなことをするだろう。これから産まれてくる人は、ぼくに何をもたらすのだろう。これから死ぬ人は、ぼくに何を遺すんだろう。ぼくは何をもたらして、何を遺すんだろう。そう考えると、儚い気持ちにならざるを得なくて、そのことはなんかとても心地よくて、自酔しているみたいで、でも、そのことを真剣に考え続けた人だけが、死ぬ瞬間を、真っ当に迎えられるんだって、思うんだ。
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 不意にラジオから流れる音楽が無性に悲しく感じたり、ふと眺めた本の文章の一節がやたらと心に沁みたり、人間の心の移ろいって、なんだかとても残酷なんじゃないかって、思ったりする。