どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

誤解されたままでいいなんて、何も良いことがない

 私が今までに被ってきた齟齬や人に理解されなかったことの多くは、自分に依るのではないか、と思う。
 自分に不利益が生じてもいいから、その場がうまく収まるようにしていることがあったな、と今になって思う。というか、人とうまくいかないことの多くがそのせいだったのではないか、とさえ思えてくる。それは大げさだけど、確実にぼくの何かを表している性質だと思う。齟齬があってもいい、理解されていなくてもいい、と。
 それは、自己犠牲と言ってしまえば聞こえは良いのだけど、その状況を乗り切るだけの、その場しのぎでしかない。そういうことは人に伝わる。そうすることによって失われた真実は雲散霧消する。自分だけが真実を知っていて、ほかの人にはよくわからないことになってしまう。なんでこいつはこんな行動をとったのだろう、という疑問だけが残り、有耶無耶になる。
 それは自分がよければ、真実はどうでもいい、うまく収まりさえすればいい、という卑屈さから来ている。そして、それはとても自分勝手なのだと思う。不利益の受け取り方には、いつだってなにか落とし所があったはず。そういうところで思考停止して、自分がそれを被ることを自分に課してきてしまった。
 それを後悔しているとか悔いがあるとか、そういうことではないけれど、失われてしまったことを取り戻すことは、もう、難しい。
 割り勘の端数を出す、とかそういうレベルの話ではない。もっとぼくの人格に影響する話である。失ったものは、物質とかお金とかそれだけじゃなくて、人間関係とか、そういった、もっと大事なもの。
 人にどう思われてもいい、と思っている節がある、ということ。その人たちのことをどうでもいいと思っていると同時に、私は自分を愛していないのだと思う。自分のことさえもどうでもいいと思っているうちは、この(へき)は抜けないだろう。もっと、自分を愛したいのだが、それがどうも歪でなのである。
 不利益はたぶん誰かが受けなくてはならない、かもしれない。思考停止しなければ、誰も不利益を受けなくて済む方法があったのかもしれない。そこで安易な方法をとったばかりに、私が受けた不利益は、もう、たぶん、覆らない。人が受ける印象は、簡単には拭えない。わたくしという人間は、表現することが苦手なのかもしれない。ただ自分勝手なのかもしれない。悲劇のヒーローでいたいわけではないが、なんだかそういう美徳を感じているような気がしてならない。何かが人格形成時にあったのだと思う。
 自分を真っ当に愛したい。この歪みをなんとかしたい。自分を愛せない人間が、人を愛することはできないであろう。
 誤解されたままでいいなんて、何も良いことがない。どう思われてもいいなんて、良いことは何もない。自分を愛せよ。もっと大事にしたほうがいい。自分も、人も。