どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

誤解されたままでいいなんて その2

 誤解されたままでいるということについて、昨日、少し書いた
 自分のことを理解しようとしてくれる人のいない状況というのは、やはりつらい。それは齟齬もうまれるし、そこから何もなしにその人たちに理解されるということもありえない。
 なんで人は人を理解しようと思うのだろう。あるいはなんで、私は理解されなかったのだろう。その中の異性には私のことを好きだ、と公言している人までいたのだから、私は余計にショックだった。そのことが私の人格形成に著しく影響を及ぼしていることは間違いない。
 まず、言えそうなことは、その人のことをすでに理解している、という思い込みは、その人のことを理解しようという意欲を阻むのかもしれない。理解しているのだから、それ以上は理解する必要がない、と思うものなのかもしれない。
 私が思うに、人間とは複雑なものである。理解した! と思った瞬間にすり抜けていくのではあるまいか。理解されていない、という感触はかなりはっきりとわかってしまう。わかってなさは理解されていない本人にはとてもわかるが、わかっていない人間にわからせることは難しいことなのかも。特に、理解している、と思い込んでいる人間には。
 そして、私はその人たちがその時に理解していた以上に理解しようと思えるような人間ではなかったのだ。それでも、好きだ、と言えてしまうのが人間で、その気持ちは、どこまでも中身のないものだった。そんなことに惑わされていたのかと思うと、ときどき自分に嫌気が差す。
 理解しようと思い合えない関係なのなら、そこに居たって仕方ないと思う。私はその人たちのこと、あまり興味がなかった。それも彼らが私を理解しようとは思えない原因の一つだったのかもしれない。単に、仲が良くなかった、というだけなのかも。
 人にどう思われてもいい、という考えはそうして作られていったのだと思う。自分を理解しようという人なんて、そもそもいないと。だから、どう思われても仕方ない、と。誤解されたままでいいと、そう思っていた。
 私は甘えていた、と思う。本当には、きちんと理解されるべきだ、と思っていたと思う。理解しようと努めて欲しいと、思っていたと思う。でも、それは人に自分の評価を委ねることだった。生きていたら、私に興味のない人なんて、いくらでもいる。そして、興味を持ってもらえないのは、自分のせいだと思う。それは自分に魅力がないからなのだ。
 どう思われてもいいなんて、思ってはいけない。ぼくは自分を愛すべきだ。自分で自分を評価する軸を持つべきだと思う。自分の良し悪しを把握するべきだ。
 いい人生を、どうか。