どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

真っ当に愛していたい

 人と人は、近づくこともできるし、遠ざかることもできる。相手が離れていくこともあれば、自分から遠ざかることもある。気になるけど、距離を取ることもあれば、興味を持たれても、遠慮してしまうこともある。すべてが自分の思い通りに行くわけじゃない。私に興味を持たない人なんていくらでもいる。その方が健全だと思う。
 人が人に興味を持つ根拠は人それぞれ違うし、その上で私という人間は、この世界に生きるすべての人がそうであるように、ここにいる固有の存在なのだから、そのマッチングがいつもうまくいくわけではない。うまくいく時もあれば、そうでもない時もある。
 誰にでも好ましく思われる人というのが想像つかないのと同じように、誰にでも嫌がられる人というのも想像がつきにくい。あるところでうまくいかないからといって、それで終わりではなくて、またどこかでは別の結果になるのかもしれない。
 『魅力的であること』ということが、自分には、どうもよくわからない。それに普遍性を持たせることになんの意味があるというのか。自分にとっては魅力的である、それだけで充分なのに。それは自分についても言えて、自分にとって自分が魅力的でいられさえすれば、けっこう幸せだと思う。自分だけで足りないのなら、自分が愛する人を魅惑できる程度に魅力的であればそれで充分だ、って思う。
 みんなが自分自身を心から愛することさえできたなら、そんなに良いことはない。愛されることを人に依存するのは、ぼくはあまりしたくない。人に愛されることでしか、自分を愛するということを確認できないのは、かなり窮屈。自分にとって自分が魅力的でありさえすれば、人を頼ることはない。お金がなくても、名誉がなくても、たとえひもじくても、自分を失わないだろう。
 自分を愛せないこと、自分にとっての自分の魅力を失うことをしてしまうことの方が、ぼくには怖い。
 自分が自分を認めて、愛して。その上でそのことを人に認められ、愛されることの方が、ずっとずっと幸せなことだと、ぼくは思う。
 この世界には、魅力的な人もいる。自分の魅力を表現することが苦手な人もいる。自分の魅力を知らない人・気づいていない人も多い。愛されることで人は自分の魅力を見出される。だけれど、みんなが真っ当に愛し合っているかというと、そんな風にはぼくは感じない。少なくとも、ぼくの人生においては。
 なぜ、自分が愛されているのか、あるいは愛されないのか、解ってる。愛する気持ちは、自分の中にしかない。自分をさえ愛することさえできたなら、自分をさえ魅力的に感じていられたなら、上々。
 人と人がうまくいくかなんて、わからない。でも、自分とはうまくやっていきたい。自分を真っ当に愛していたい。それが、人を愛する方法だと、本当に思ってる。