どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

嫌なことから目を背けること

 わたしは、嫌な気持ちになることを、極端に恐れている気がする。嫌な気持ちを持って、突き刺さってしまった刃でできた傷を、なんだかナルシシズム的に愛おしくさえ思っているのではないか。自分は可哀想な人間だ、という風に。「可哀想な人間」というのはたぶん極端な言い方だけど、なんかそういう雰囲気を感じなくもない。つまり、自分は被害者であると思っているし、被害者として悲しむべきだ、と思っているのではないか。そして、自己嫌悪というのは自分を許したいだけで、先に進むという思考では決してない。
 この話、何を以って嫌な気持ちになるか、ということと深い関わりがあることではあると思う。でも、完全に自分に非がないことなんてたぶんなくて、だからと言って自分を責めたらそれでいいというわけでもない。嫌な気持ちにならないようにケアしたらそれだけでいいわけでもないし、ましてや嫌な気持ちにさせられないように人をおだてたりおべっか使う必要もないと思う。
 サバサバしてる人は生きやすいだろうな、と時々思う。嫌な気持ちになっても、必要以上に気に留めず、ましてや気に病まず、淡々と自分のするべきことに注力できることは、私たちの精神を保つのに都合がいい。
 嫌な気持ちになることを避ける行動は、いつも正しいわけではないかもしれない。嫌な気持ちになる先に、自分の求めているものがある場合もあるかもしれない。何かを得るためには、何かを失う必要がある場合もある。必要以上に嫌な気持ちになることはないと思うけど、簡単に嫌な気持ちになって、何事もなかったかのように復帰して、得るものを得られるのなら、その方がいい。嫌な気持ちにならずに得られるのなら、その方がいいけれど、いつだってその正攻法が通用するとは限らない。
 何が嫌なことなのか、というのは人によって違う。お金のためならなんだってするという人だっているだろうし、ちょっとした愚痴で傷ついてしまう人だってある。この先に嫌な気持ちになる何かが待っているだろうと構えられることと、突然降って湧く嫌なことはまた違う。理不尽なこともあるだろうし、予期せぬ嫌なことも、人生にはある。
 許せる嫌なこともあるし、看過できないこともある。時間とともに消えてしまう嫌なこともあるし、何十年経っても決して忘れることのない嫌なこともあるのかも。そういうことに執着して生きるのは、ぼくは、嫌だなぁと思う。
 嫌な気持ちになりそうな場や人を、僕たちは無意識に避けている。そうやって、前に進まない。そしてそのことに自覚的でないことが厄介だ。ちらっとでも、あのことを嫌なことだと思うのなら、少しでもそちらを向いてみるべき。そこに、何かがある。自分の向き合うべき何かがある。自分を打破するべくは自分であって、他の誰かではない。自分が向き合わなければ、他に向き合う人間などいない。
 逃げている自分をなんとかしない限り、人生は、進まない。進みようがない。