どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

書くことで、できること

 自分の中に、信念があるだろうか。エナジーがあるだろうか。あるかもしれないし、ないかもしれない。もう枯れてしまったのか。情熱を持つだとか、嫉妬するだとか、そういうことはめっきり少なくなった。いつからか、何をしていても、何を手に入れても、満たされなくなった。
 自分のしたことでしか、ぼくは認められることはない。自分の考えたこと、行動したこと、これから先にできるであろうこと、そういうことでしか、ぼくたちが指名されることは、たぶん、ない。
 ただ人に頼まれたから、それだけでいい。ただ人に必要とされたから、それだけでいい。人が願っているから、そういうことが力になることもある。ただあなたの書いた文章を読みたいのだ、そう言われるだけで、ぼくはうれしい。
 ずっとずっと、違うところに、効果的でない方法で、力を込めていたような気がしている。ただ自分は正しいと思ってやっていた。それは、確かだ。自分の見る目が間違っていた、そういうことなのだと思う。それなりに情熱を持っていたこともあった。でも、それをうまく使うことができていなかった。
 人だ。人なんだ。いつも。すべて。人がいるから、あらゆることが変わる。やっていける。自分一人だったら、何もできなかった。自分の能力がどうなのか、なんて分からない。どうでもいいのかもしれない。必要とされるのなら、何かの力にぼくは成れるのかもしれない。
 どんなに物を手に入れても、愛する人ができたとしても、意味がない。自分のしたことに誇りをもてないのであれば、生きていたって仕方がない。ぼくが満足できなくなったのは、誰にも接していないからだ。ひとりだからだ。
 ただ書いていたい。それは書くことによって救われてきたからだ。書くことによって自分をなんとかできると思っているからだ。でも、書くことは行動することにはいまのところならない。考えを表明することでありはしても、自分にできることを示しはしない。人に伝わっているのかさえ分からない。ただ文字が並んでいるに過ぎない。それでは、誰も感化しない。
 書くことで、人と繋がりたい。嫉妬したい。感化されたい。できることなら、感化したい。ぼくは人に刺激され、あるいは刺激することで、生きていける。書くことでそうできると、信じてる。