人に認められること、認めること
恋愛は究極の、人に認められ、人を認める行為だろう。
人に認められたからといってその人がそれだけで立派というわけでもないけれど。ただその人は自分を認めてくれる人と出会えたのだ。そのことはとても尊いことだ。
自分自身を認めていないぼくには、人に認められることを受け入れることができそうにない。でも人に認められることは、自分を認めることの手助けにはなる。自分を認めてくれる人がそのことを示してくれるということは、自分を認めるためのきっかけになるということ。自分のどこを自分でどう認めたらいいのかという提示は、その人を確実に勇気付ける。
だけれど、ときに曖昧な認証は、逆効果になったりすることがある。この人は自分のことを何もわかっていないのに、何か自分に対して良い顔をしようとしているだけなのではないか、と感じてしまう。恋に恋してる人ってのはいる。誰かと性交することで何者かになろうとする人もいる。
自分を認めていない人には恋愛は難しい。少なくとも、ぼくはそう自覚している。
自分を認めることなんて、たぶん、簡単だと思う。そうも思っている。自分を認めることができない人間なんていないとさえ思う。
それでも自分を認めないのは、やはり、ぼく自身なのだ。
自分を認めてくれる人はどうも
ぼくがどういう人間であると、識っている人は少ない。それはぼくの社会への曝露がそもそも少ないから。少なすぎる。人と接する面積があまりに少ない。
なんだか、今のままでは認められたくない、という自分がいる。認められるべきではないという自分がいる。目標が高いというよりも、自分はまだできていない、という内なる闘いがある。
その一方で、認められたいという気持ちもある。それは、ある。
あるいは恋愛の形で認められるのなら、本望だろう、とも思う。
自分で自分を認められるべき人間だと思えるのなら、人に認めれることを受け入れることができるだろう。要するに自分が認められるべき自分を規定している。
それは間違っているのかもしれない。認められるのであれば、それがどんな自分であっても、そう受け止めたらいいだけなのに。そこにあるのはプライドなのだ。まだやれる、こんなもんじゃない、という自分がそこで邪魔をしている。それを認めてしまったら、その自分で成長が止まってしまうかのように思っている。
その結論はたぶん、出ない。認める人に、そういう意識があるのなら、そうやって認めてくれるのではないか。わたしはチヤホヤされるだけなのは嫌なのだ。どこかで成長を止めてしまうのが嫌なのだ。そういう向上心のようなものが邪魔をしていることは、たぶん、間違いないと思う。
恋愛は、究極の、人を認め、認められる行為だと思う。それを安易にしてしまいたくないという気持ちがある。とてもある。ちゃんと認めたいし、認められたい。
たぶん、それだけなのだと思う。