どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

他にはかえがたいうつくしさ

当記事は、以下のリンク先に改定し改題されております。そちらも是非ご覧いただければと思います。
110-shine.hatenablog.jp

 “木”という言葉を読んで思い浮かべる木は、地球ができてから生まれたすべての木を指すかもしれないけれど、ぼくがいう木はこの、君がすやすや寝ている木以外ではない。この、名前も知らない木の根の元で寝ている君を陽の光から微かに守っているこの木漏れ日ほどうつくしいものは他にないだろう。
 一本の木を指し示すことは、この世界を生きたすべての種類の木の代表であり、そして、その木漏れ日が陽の光から守っている女性もこの世界に生きたすべての女性の代表である。
 それは、ぼくにとってはその木でなくてはならないし、その女性でなくてはならない。それ以外の木であってはならず、その女性以外の女性であってはならない。
 こうして書いたとしても、この、女性であるべき言葉は人によって違うだろう。別に木漏れ日でなくてもかまわないだろう。イチョウの木でも桜の木でも、愛する息子でも余命少ない父親でもよい。
 一つの言葉がすべてを代表し、そして、かつ、具体的である。言葉とはそういうものだ。
 穏やかな風を指し示すには「穏やかな風」と書く以外にも方法があるのかもしれない。具体的に書いてもよい。もっと抽象的にしてもよい。ただ自分の感じた風を、押し付けがましくなく書けばいいんじゃないか。
 書いた瞬間にそれは言葉であって、それを読んだ人の受け取りに委ねるしかない。どんな美辞麗句を並べたところで、人に伝わらないのならしかたない。
 ぼくにできることは、言葉として成り立っているものを書き続けることくらいだ。
 小さいころに山の中腹で観た満点の星空はうつくしかった。あれにまさるものは、ぼくにとってはもうきっとあり得ない。あのとき、あの状況で、あの人と観た、だからこそかけがえのないうつくしさなのだ。
 木漏れ日の差すなか、その根元で眠っているひとも、うつくしいのだろう。
 ぼくは、ぼくたちは、こんな風に他にはかえがたいうつくしさをかかえて生きていく。だから、生きていけるのだ。