どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

木漏れ日の差すなか、その根元で眠っているひとの美しみ(「他にはかえがたいうつくしさ」を改変して改題)

 “木”という言葉を読んで思い浮かべる木は、地球ができてから生まれたすべての木を指すことができるかもしれないけれど、ぼくがいう“木”はこの、君がすやすや寝ている“木”以外ではない。この、名前も知らない木の根の元で寝ている君を陽の光から微かに守っているこの木漏れ日ほど美しいものは他にないだろう。
 書かれた一本の木は、この世界を生きたすべての木の代表であり、そして、その木漏れ日が陽の光から守っている女性もこの世界に生きたすべての女性の代表である。
 それは、ぼくにとってはその木でなくてはならないし、その女性でなくてはならない。それ以外の木であってはならず、その女性以外の人ではない。
 こうして書いたとしても、この、女性であるべき概念は人によって違うのだろう。べつにこの木でなくてもかまわないだろう。イチョウの木でも桜の木でも。その人は愛する息子でも余命いくばくもない父親でもよい。あくまでもぼくにとっては、この木、この女性、ということ。
 一つの言葉がすべてを代表し、そして同時に、具体的である。言葉とはそういうものだ。だから、おもしろい。
 書いた瞬間にそれは言葉であって、それを読んだ人の受け取りに委ねるしかない。どんな表現をしたとしても、人がなにも受け取るものがないのならしかたない。
 ぼくにできることは、言葉として成り立っているものを書き続けようとすることくらいだ。

木漏れ日の差すなか、その根元で眠っているひとの美しさ

 他では代替できない“木”を書きつつ、読んだ人の中にはその人なりの“木”がある。この一行を読んで、あなたの大事な人を思い浮かべることもあるかもしれない。言葉によって喚起するものとは、きっと、そういうものだろう。
 意味に広さを持ち、いろんなものを代表して言葉は成っていて。だから私の書いた“木”とあなたの思い浮かべた“木”は当然に違うのだ。違うのだけど、それこそが言葉や文章の持つ魅力なのだ。広くいろんなことを示して人によって違うものを連想させつつ、具体的なことをも同時に想起させることができるのだ。

木漏れ日の差すなか、その根元で眠っているひとの美しさ

 ぼくは、ぼくたちは、こんな風に他にはかえがたい美しみをかかえて生きている。
 それを表現し、感じることができるから、言葉で表現することはぼくにとって尊い
 そういうものを、ぼくは書いていきたいんだ。