晴れやかな気持ち
わたくしの心がひりひりしていた頃に読んだ本、聴いた音楽、観た映画。それらはわたくしを救ったというよりも、感化してくれていた。そういうものを堪能していたというよりも、ヤケドにぬりつける薬みたいだった。痛んだ皮膚はそれまでよりも分厚くなる。
わたくしをほんとうに救ったのは、ただ朝焼け。誰も何も意図していないその景色は、本当にわたくしを慰めてくれた。人がまだ眠りについている時刻にこっそりと目を醒まして、空の広いところまで歩いていく。その場所、その時間にしかあじわえない、その景色を独り占めすることは、ぼくにとって、とても居心地の良いことだった。そういうことって、あるでしょう。
創られたものには、創られたものに宿る何かがあって。
自然には、自然に宿る何かがあって。
ぼくは、いま、堪能している。いろんなものを。夕焼けや人との関わりや、人が造ったものも、当たり前のように。宿っているなにかを具体的に感じることもなく。ただ甘受している。
誰かが意図したにせよ、なにかがそう意図した(たとえばかみさまとか)にせよ、そんなことは関係なくて。ただそれはあるべくして目の前にあって。あるべくしてあっても、そのことに意味があるわけでもなくて。ただ、ある。それを求めたのはぼくかもしれない(朝に起きて焼けを見るように)し、ただあるだけかもしれない。その時にそこにあるものが、ぼくを救うかもしれないし、そうでもないかもしれない。救われようとするぼくの心のはたらきが、ぼくをこそ救うのだと思う。ひりひりした気持ちの時にぼくの目の前にあったものが全然違うものであった可能性だってあった。それは朝焼けではなくて、夕焼けだったかもしれない。あの詩集は、信頼する人のおっぱいだったかもしれない。
とにかく、人が生きていくのにそういうものが必要なときがある。それはなんでもいいともいえるし、なんでもよくないのかもしれない。感じとる人に合ったものがその場その時にあれば。そして、人生とはうまくできているのだと思いたい。
ぼくの大事な人が少しでも晴れやかな気持ちになることを願ってやまない。
そらはきょうも蒼い。