心の傷に気をやって疲れているすべての人へ
傷ついたことがある、なんて、言っていても仕方がない。みんな当たり前にそういうものを抱えている。自分だけが不幸だなんて、傲慢なのかもしれない。均等にではないにせよ、みななにかしらの不幸を持っている。どんな状況だとしても、不安を感じている人もあれば、そうでない人もある。容易く自分が不幸であると表明するひとを、信頼できるだろうかと、ぼくは思った。
人は本来的に不幸なのかもしれない。傷ついたことのないひとなんて、たぶんいない。いつもどこかにその傷を隠しもって生きているのが人なのだと思う。
自分は不幸だと落ち込むだけのひとは、自分にはそれに対応する力がないのだと表明しているのと同じだ、と言ってしまったら、言い過ぎなのだろうか。人には耐えられない悲しみだとか不安というものがあるのかもしれない。仲間を守るために手が呪われ、呪いによって人を殺めてしまっても、『わずかな不運』と確言される映画があった。
不幸や不安を表にするのはその人の自由だと思う。耐えられない苦しみというのが人にはある。表明することにその相手への甘えが含まれている場合もある。そう表して、そうしてしまっていることに気がつかないことだってあるのだろう。
人はあまりに簡単に傷つき、またそれを表現することも簡単である。人によって感じるセンサーは違い、またその対応力も違う。
だけど、自分だけが不幸を得ているなんて、思わないほうがいい。誰だってそれなりに不幸で、それなりに幸福で。誰だって傷をもっている。そして、なんとか生きている。
自分に降りかかった禍福をなんとかしようとするから、人は美しい。そこにこそ人格というものが垣間見える。
不安は、逃げるものを追いかけ、立ち向かうものには軽くなる。そのことを覚えておいてほしい。向き合おうとするだけで、気の持ちようは変わるのだから。受け身にまわってはいけない。効果的に行動すれば、もっと大きく変わるのは自明のことだ。
なんとかしたいという気持ちがなければ、自分でなんとかすることも、周りの人が手を差し伸べることもできないのよ。
このどうにも弱り切った精神を、かつて熱くたぎっていた魂に注ぎたい。
どうにかなることはどうにかなる。どうにもならんことはどうにもならん。
今を生きることでしか、今をなんとかする方法はない。
傷つくことを恐れなくなったなら、君はもっと高く翔べる。