書くことを諦めること、自分を偽ること
どんなに自分に嘘をつこうとしたって、言葉にはどうしても現れている。それをしたくて仕方ないことが、それをしていなくては生きている意味がないなんて大袈裟だけれど、どうしても、自分を偽ることができない。
どんなに自分について見て見ぬ振りをしても、誤魔化せないことがある。
ぼくは簡単に言い訳するし、すぐに逃げる。卑怯な人間である。多くのことについて、諦めることは簡単だ。
価値のあるものを生み出せるわけじゃない。人に認められているわけでも、人格として好かれているわけでもない。
読むことによって救われてきたからといって、私が書いたものを読んで救われるわけではない。書くことによって救われてきたかもしれないけれど、そのことが人にとって価値があったわけではない。言葉として表現するのに、自分だけしか救われないなんて、それを言葉と言えるだろうか。自分が書くことに快楽を覚えているからといって、それをし続けていいのだろうか。読むという快楽について考えるようになってから、ぼくは書くことが怖くなった。
書くことで何かを説明する態度をとることは簡単だ。でも、それで人に伝わるかどうかはまた別だと思う。それだけで読む価値があるとか、快楽があるというわけではない。書いた人の押し付けに過ぎないかもしれない。
それでもひたすらしがみついて、足掻くしかないわけです。寝ていても仕方ないわけです。叫んだって、憂鬱になったって、良いものを書けるようになるわけではない。ひたすらに工夫して頭を使って書き続けるのだ。そう腹を括るのだ。
自分にできうる限りのことをしたのなら、諦めることができるだろう。これ以上無理だというところまでいけたなら、諦めることもできるだろう。才能その他の所為にできるだろう。限界に挑んでいない自覚があるから、諦めることができないのだ。
自分を偽ることは簡単だ。自分を誤魔化して生きていくことだって、できるかもしれない。
でも、自分がこの人生で、今日まで生きた心地がしなかったのは、そういうことが原因だったんじゃないの。いろんなことを諦めてきたから。もう、そういう風には生きたくないって、思ってる。
自分のためだけに書くのではなく。自分がなにかを乗り越えるために書くのでもなく。救われるために書くのでもなく。読むという楽しみを考え続けてる。表現を楽しむことについて。情動を楽しむことについて。
自分が楽しくないものが、人にとって楽しいわけがない、と思っている。