どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

網の中で文字をならべる

 文字をならべただけでそれに価値があるなんて、幻想に過ぎない。世界に発することがこんなにも簡単になってしまって、それに依存してしまう文字禍の被害者のなんと多いことか。僕もその一人である。
 自分について語ることはとても気持ちの良いことだ。しかし、この世界にいるほとんど全部の人にとっては、どーでもいいことである。自分の説明を書いたとて、それだけで書いたものが何かの意味を持つというわけではない。書いたものだけでなく、その存在だって多くの人にはなんでもないこと。
 自分という存在の価値を問いたいのならば、それなりの行動をする以外にない。そんなに大げさでなくても、社会にいるって、そういうことじゃん。
 僕は自分の書いたものの価値も、自分自身の価値も考えないというスタンスを取っていたような気がする。だから、盲目的に書き続けることができたのだ。しかし、それは本当には恐れていたのだ。なにもかもがはっきりしてしまうことを。自分という存在の薄さみたいなものを感じてしまうことが、僕はとても怖かった。
 人は無意識のうちに自分を価値付けたい生きものである、と僕は考える。理想的には、どんな行動にも価値のようなものが潜んでいて、何にだって意味を感じたいし、ムダなことにさえも何かの意図を感じずには実行できなかったりする。少なくとも僕には。
 自分自身の価値を決められることから必死で逃げ回っていたのに、やはり、心のどこかには、評価されたい自分がいた。どうしようもなくいたのである。
 読むに値するなんて、あるいは居るに値するなんて、僕自身だけに決められることではない。価値があるかどうかって、人が読んでどう思うか、ということ。そこに居てどうか、ということ。それだけなのだと思う。
 文字を置いていくだけなんて、とりあえずは誰にだってできる。自分の都合の良いように考えることも。人との関係の中で何ができるのか、っていうのが、いつも本質なんじゃないのか。この網の中では、どこまでも孤独にもなれるし、誰とだって繋がることもできるのに。そうしようと思えば、だけれど。