どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人と繋がる/関わる光栄

 「考えることができる」という自負は、自分にとっておそらくよいことではなくて、その良し悪しを客観的に指摘することができる人がいない場では、しないほうがましなのだすらと思っている。自分の判断はいつも間違っているつもりでいるべきなのだけれど、いまの私は今の自分を信頼しきってしまっている、と言ったらおおげさだろうか。不遜なのである。
 調べることができることについては、調べ尽くすこと。考えることについては人の担保を、常に課していたいのだけれど。
 自分だけで考えるという閉じた系が外に出る時に、つまり表現する時に、行動として表す時に、自分の考えのボロが出るわけで、そして、表面化してしまった後でしか、自分の考えの不具合について指摘される機会というのはない。
 自分の中にだけ考えがあり続けるのであれば、それは自分だけの失敗で終わるのだろう。死ぬまで自分の中から外に一切出さなければ、出なければ、であるけれど。
 考えを実行する前、具体的に行動する前に口頭でこう思うんだけど、どう思うか、と人に相談することが大事な場面というのは結構ある。僕は自分だけの判断で決めることに慣れてしまっているし、そのことに対する自分への信頼もないわけではないのかもしれない。
 でも、そうやって間違ってきたことは枚挙にいとまがない。取り返しのつかないこともあったかもしれない。
 自分だけの世界で、自分の裁量で全てを決めることができるのは、とても心地がいい。失敗も全て自分で責任を取れるのであれば。でも、社会的に生きる限り、そうはいかないのが常だ。社会的なことに限らず、自分のことであっても人に意見を求めることは、あるいは多様な意見を得ることは、それを判断する能力がある限りは常に益である。
 大事なことは、人の意見に素直に無思考に無検討に従わないことなんじゃないか。僕はそうしてしまう傾向がとても強く、そうして判断を誤ってしまうことが多かった。
 それを指して世間知らずと言っている。
 こうして文章を書くことは、人の目には触れるものの、視線があるわけではない。トンチンカンなことも、間違っていることも、不倫理なことを書いても、訂正する人はほとんど現れない。
 とにかく話を聞いてもらえる機会をもっともちたい。創りたいものについて人に話したいことがたくさんあるんです。
 つぶやきを聞いている人がもしあるのなら、僕の書いた文章に少しでも興味を持ってくれる人があるのなら、僕は是非あなたと関わりを持ちたいのです。その関わりはどんなにかすかなものであっても、何もないこととは全く違うことです。
 そういう関わりをいつも呼び込める人間であり続けたい。
 多様さの担保のある思考はやはり堅牢である、盤石である。
 誰の担保もない独断の考えには間違いが多いかもしれない。特に僕のような多様性に触れていない人間にとっては、うまく考えることはとても難しいことだ。
 多様さの海の中で泳ぐことは、自分を失うということではないはず。自分一人では決して辿り着けないところがある。
 昨日まで知らなかった人と繋がるという光栄を。
 さっきまで見て見ぬ振りをしていたどこかのだれかと関わる光栄を。
 生まれてきたどんな人にも、この世界にあるどんなものにも、必ず良いところがある、と本当に信じている。