どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

考えを尽くすこと、言葉を尽くすこと

 今よりもっと若いころ。たとえば、思春期のころ。みんな異性にモテなければ気が済まないという感じだった。モテたくてしかたないように見える人ってたくさんいた。少なくともぼくの周りには。
 高校生から大学生くらいの、性交渉に過敏に興味を持っていて、そして”それ”を実現できるであろう人たちは、モテることに躍起になっていたように思う。まるでそのことが人生のスベテであるかのように。まるでそのことが当たり前かのように。
 そういうモテの群の中にいて、モテなくてもかまわない、という人間は忌避の対象だった。服にもお金をかけない、むしろダっサい。流行りの音楽を追いかけることもせず、ただ自分のやりたいことをやりたいようにもやっていた。ぼくはその人たちには気持ち悪い人間に見えていたのではないか。
 ぼくの個人的意見を、今、此処で語っても仕方ないのだけど、モテたとしても、ぼくが思いを寄せる人に好かれなかったら、なんの意味もないのに、と思っていた。本当にそう思っていた。ぼくには不特定多数に好意を持たれることの方がなんだか怖かった。本当にこの娘はぼくのことを知って好きだといってるのだろうか? そういったことに、優越感を感じることもなく、ただ、自分に自信のないまま、でも、自分のしたいことをいつかはできるようになりたい、ともがいていたのだった。そのことには恋愛とかセックスとか、関係なかった。自分が自分のしたいことにのめり込めることがすべてだった。
 でも、それは今思えば「モテたい」に我を失うことと、そんなに変わらないことだったのかもしれない。
 そういうことを、きちんと思考して説明できるだけの言葉を持っていたなら、たぶん、ぼくは今こうしていない。
 考えて言葉として表すことが、ぼくにはどうにも苦手だった。というかそもそも理解していなかった。
 人がどう思っているのか、なぜ人がそういった行動をするのか、自分がどう思っているのか、なぜ自分はそういった行動をしたのか。自分と自分のいる環境を理解できていない人間に、考えを尽くし言葉を尽くすことは難しい。
 それはつまり、人を説得することであり、自分を説得することである。人の機微から何かを汲み取り、自分の行動として何かを表現すること、そのすべてにおいて、ぼくは後手に回っていた。
 やっぱり、ぼくは変だったのだ。言うべきときに言うべきことを言えない人間だった。人が自分のことをどう思っているか、について慮ることができなかった。人の気持ちも自分の気持ちも、そして、それが現れているであろう細やかな表情や行動に目を配ることができていなかった。
 ナンカ変なんだ。でも、ナニガ変なのか自分ではとんとわからない。
 ぼくは最近うずうずしているんです。簡単には言葉にならないことについて、言葉になるように尽くすことの「うつくしさ」について思いを馳せているんです。言葉を尽くすなら、示せないことなんてない、なんて思ってしまっている。人間に関することを、言葉にできないなんて、そんなわけがないだろう、そんな感じです。いまは、いくらでも考えを尽くして、言葉を尽くしたい気持ちでいるのです。
 あのころから、少しは人として成長できているのかなァ。