どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

色づく人生、それから世界。

 人に認めてもらえたところだけが色づくのだから、人生は。「いいね」とか「お星様」みたいな離散的な値だけで伝えるのではなくて、きちんと言葉でもって認めていることを示してあげて。
 人生で、本当に認め合える人と出会えることは本当の本当に幸福なことだ。それだけですべてを了解し合えるのだとしたら、許し合えるのだとしたら、そんな人がいたなら、ぼくは大げさでなく「生きていてよかった」と思えるだろう。
 僕にも、心が震えたことが人生に何度かあった。たとえば恋愛であったりとか。ただ好かれるというのではなくて、本当に認めてもらえていると自覚したときには、心が震えた。この人はきちんと人生を負っていると思えたから。嘘偽りが微塵もないと心の底から思えたから。人生を賭けている人の目には言葉には、重みがある。ないがしろにできない何かがある。何よりも全身の自分の細胞がうれしい、と叫んでいた。
 みんなしょっちゅうそういう目に遭っているのかもしれない。仕事で何かをするにせよ、恋愛するにせよ、友情を育むにせよ、誠実な人にはそういった機会がたくさんあるのではないか、という予想は容易に着く。
 とにかくぼくには経験が足りなさすぎる。ぼくには誠実であることさえ適わなかった。そういう年を過ごした。
 心が震えることに麻痺やマンネリなんてないはず。人生を賭けて人を思うことに、嘘も繕いも見栄も入り込む余地などない。
 ぼくは言葉によって、認められたいと願っていた。それはある意味では叶ったかもしれない。だけど、本当に才能のある人は、言葉を編むことで人をさうできるだらう。書いた本人も、心の震えが止まらないだらう。そうやつて、認められるのだらう。ぼくはさうぢやない。
 ぼくが本当に孤独だったころ、毎朝、紺色から色づいていく朝日を見つめていた。そうやって、世界を認めたかったのかもしれない。世界にいて、そこに何かを見ている自分というものを、自分で認めたかったのかもしれない。人に認められたところが色づくのだとしたら、色づいていくことを認めることによって、自分を認めようとしていたのではないだろうか。
 まだ、今のぼくには人に認められるには及ばない。それは当然のことだ。自分をそう許していないような気さえする。それさえも認められるのなら。まだまだ人生は永い。良い出逢いを願う。