どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

「妄想」と「現実」の間で

 「妄想」の世界では全てが思い通りに「実現」してしまう。でもそれはそれだけでは「現実」ではない。
 「妄想」は「妄想」。ネットは「妄想」を持ち込んでもいい場所ではなくて、なんでも「実現」できるかもしれない場所じゃなくて、「現実」と地続きになっている、この世界のどこか。自分の代替になる「仮想」ではない。
 娯楽は娯楽として、楽しみは楽しみとして。でも、全てが自分の思い通りになるわけじゃない。人は人。自分は自分だから。
 「現実」を生きろ。「現実」の自分を信じてくれる人がいる。「現実」の自分は信頼されるに足ることだってある。そうわかったのだから、そうであれば、そうでありさえすれば、「現実」に生きることは容易い。
 ある理由から、僕は自分の「現実」の人格とか人柄とか人間としてのあり方を信じていなかった。そうせざるを得なかった。だから「妄想」に逃げ込んでいたわけだけど、そうやって都合よく考えようとしていたわけだけど、「現実」は「現実」だから。何かがうまくいかないとしたら、たぶん、何かが間違っていることを示している。
 「妄想」は「現実」じゃない。「妄想」は「妄想」。そう区別して、現実と地続きのものとして、ネットを使うことだってできるはず。そう思っていることは、伝わる人にはちゃんと伝わる。「妄想」を「妄想」として、うまく遊ぶことができるってこと。
 僕はその点がとても中途半端だった。ネットは「妄想」として、それで完結しようとしていた。「妄想/ネット」だから、それでいいんだと思っていた。その世界で生きてしまっていた。「妄想」の中で、自分の思い通りに生きようとしていた。自分に都合よく考えてしまっていた。そうやって生きていた。それが実現しないことにフラストレーションを抱えていたのかもしれない。でも、それはやっぱり「現実」じゃない。思い通りには決していかない。
 僕がネットに書いたことには嘘はないつもり。だけど、やっぱり、それは、限定された情報でしかない、ネットの世界での自分でしかない。「現実」の自分とは、やっぱり、当たり前にズレがある。嘘をついているつもりはなくても、やっぱり、自分とは全然違う。
 ネットにおける自分が自分の地続きであるような、ないような、つまり現実の自分を反映はするけれど、そのままの自分では決してないように、ネットでは自分に都合のいいことが起こるんじゃないか、と考えてしまっていた。でも、それはやっぱり「現実」とは違う。
 「妄想」をすることはそれなりに楽しい。「妄想」を書くことは、もっと楽しい。それが「実現」しているような感覚になれるから。でも、それはやっぱり「実現」していない。「妄想」は「妄想」として、楽しむべきだ。贋作とわかって、そういうものとして向き合うべきものだ。
 僕は考えることが好きだ。でも、それが正しいのかもわからないし、必ずしも人の役に立つってわけじゃない。私の考えが、何かの役に立つってこともあるかもしれない、ないかもしれない。考えた行動の結果によって認められることもあるかもしれない。でも、却って厄介だったり、ネガティブな部分だってあるのかもしれない。
 考えるだけで行動しない人の、その考えの正しさを人間には評価できない。考えたことは、「実行・実現」しなければ、意味がない。それが正しいかどうかは決して誰にもわからない。
 それはネットでも同じなのだ。ネットに書いた「妄想」だって、「実現」したなら、「現実」になる。「妄想」したからって、それだけで「実現」するわけじゃない。「現実」にするための刻苦勉励を尽くすなら、いくらでも「実現」できることもあるのだろう。それはハナから諦めていいことではない。「妄想」と「現実」を地続きにすることができるかもしれないということ。
 叶うことは叶うし、叶わないことは叶わない。
 ネットという場さえ、自分の都合のいいように考えてしまっていた。「現実」は「現実」として、「妄想」は「妄想」として。それは地続きであるような、ないような。それはうまく利用していったらいい。そうやって「現実」を変えていくことだってできる。でも、すべては「現実」のためにこそある。それを履き違えては、うまく生きることは決してできないのだと思う。