どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

『G戦場ヘヴンズドア』について

 私がこの漫画についてどのように語ったとしても、この漫画を読むという行為そのものにはとても敵わない。この全3巻の本に書かれている絵と文字には、本当に多くのことが詰まり過ぎていて、正直に言ってこの本について夜中まで一コマずつ人と語り合いたいくらいだ。死ぬまでに気の合う人とそういうことができる機会を持てたなら、本望だと思う。そのくらいにこの漫画が好きなんです。
 ものを本当に精魂込めて造ることによって、人は一人ではいられなくなる。友情だとか、愛情だとか、それももちろん人生にとっては大事なことだと思うけれど、良いものを造ることを目指して集う人たちの”美しさ”がこの本には描かれている。
 “造る”ことにおいて、人はそれぞれのやり方で、けしかける。
 女性は男をけしかける。それは、男を覚醒させたいからだ。コンプレックスを刺激し、時に導いて。覚醒する男と出会えたなら、自分が救われると思っているからだ。そして、そのために人生を賭ける。その凄みがある。
 覚醒させ合う二人は、結局は結ばれない。そのことにさえ、納得できてしまう。男と女というのは、そういうものなのかと思う。僕にはあまりに人生経験が乏しすぎる。
 男も女も、漫画家も編集者も、みな本気になっている。造ることにも、生きることにも。ただ生きるのではなく、自分が好きなことに”込めて”生きるということ。そうしなければ、生きられない人たちの”美しさ”を僕はこの漫画から読み取った。
 描かなくては生きていけない(生活するという意味だけではなくて)人間が、衝動として描く。描かなくては気が済まないような人。自分を保てないような人。そうすることで救われるということ。それを知っているということ。
 創ることで繋がることには、何のわだかまりも、遠慮もない。ただ良いものを作るためにぶつかり合うそのつながりは、とても強固なものになる。
 主人公はかつて独りだった。誰からも理解されない人だった。理解しようという人はおらず、理解されようともしていなかった。そうして、描くことに巻き込まれるうちに、独りではなくなる。人に理解され、認められ、生きるのに充分な理由を見つける。そこには縁もあり、人柄や人格もあり。そうして、描くべくして、描く。描くことで理解し、理解される。認められる。彼ほどに真摯な人間は、いない。
 だけれども、全くそれだけではこの漫画を語るに到底足りない。
 生きること、死ぬこと。それによって翻弄される人たち。決意する人。人生を壊してしまう人。壊れてしまう人。そして、人を信じるということ、愛するということ。
 自分の好きなことによって生きるということ。創るということ。創りたい、ということ。創る歓びを知ってしまってもう戻れないということ。それなしには生きられないということ。
 たぶんこの箇条書きを読んでもわからない。気になったのなら、漫画を手に入れて、読んだらいい。そして、ぜひお話をしましょう。

 最後に、僕の個人的な話を。文章を書くことで、孤独を慰めていた面が僕にはあった。読まれているのか、そうでもないのかわからないのだけど、それでもそんなことは問題ではなかった。誰もが自分をけしかける人と出会うわけではない。自分を自分でけしかけていた部分もあったと思う。そうやって書いていた。だからこそ孤独を慰めることができた。人の目を意識するからこそ書けることもあったし、この人に認められたいということもあった。
 ツイッターなどSNSは、そこに人がいる感じがした。でも、それは自分を孤独からごまかしていただけだった。何かの反応をいつも待っていたような気がする。でも、ネットの限られた情報では、ほとんどのことはわからない。伝わらないことも多い。痛々しい醜態を晒すことが常だった。そういうことを恥とも思わないことが余計に痛々しかったのではないか。
 ネットでうまく自分を表現できず、人に理解され得ないことをもどかしく思った。機会がなければ、人は言いたいことを言わない。読んだ人が何を思うのか、僕には検討もつかない。
 僕は真摯なのだろうかと、思う。
 ぶつかり合って高め合うこの漫画の人たちに、僕が憧れるのも無理はない。つまりは、そう生きたいのだ。そうできるのなら、なにをするんでもいい、誰だっていい、何を言われたっていい。本当にそう思っている。