どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

幸せについてのなにかしら

 友達と話していて、気がついた。僕はずっと、誰かを信頼したかったし、また誰かに信頼されたかったんだ、って。
 僕はある理由から、ネットでしか自分を開くことができなかった。へんな言い方だけど、最近はネットであるのに自分を閉じているようなときもあった。
 信頼に関する場として、ネットだからとか、現実社会だからとか、あまり関係ないのかもしれない。どんな場だとしても、拠り所はいつもか細いものなんじゃないか。ネットがアバター(仮想)であることを利用する人がいることは知っているけれど、僕の周りには幸いにいなかった。そういう人を無意識に選んでいたのかもしれない。自分だって自分としてネットにいた。ただ、閉じている自分を強制的に人に晒すことは間違いなく信頼を著しく崩していた。
 「信頼」というキーワードが掘り起こされた時、何かが決壊して涙がボロボロ出ていた。心の底からこれは正しいと直感で思った。僕は誰かしらを信頼したかったし、誰かに信頼されたかったんだ。
 孤独をしんどく思うようになったのも、信頼を失う行動をしている自分を知っていたから。信頼は直裁に自分を無意識に痛めつけた。
 ここ最近で、友達やいろんな人に心をタッチされた。その人たちからの信頼にみえるものは、僕に対する哀れみだったのかもしれない。そうでもないかもしれない。哀れまれるであろう部分も、僕の一部ではある。でも、それを誇ってしまうのは自分にとってよくない。
 本当に人格として真っ当に人に信頼されるように生きていきたい。
 本当に真っ当に人を信頼できるようにように生きていきたい。
 それはたぶん、今の自分の態度や誠実さや目の輝きや、できることやできるであろうことや、人柄や人格や、なんらかの魅力や愛着や、それらの安定性によってもたらされるんじゃないか。これは予想であってたぶん全然足りないし、人によっても全然違うし、まぁなんだかいまはよくわからないけれど、そんな感じです。
 それは繕えるものでもないし、ただそうあるものでしかない。だからこそ危ういんだけど、だからこそ「信頼」できる。
 信頼し信頼されるように生きられたら、たぶん、それは幸せにつながっていると思う。普通でなくても、人と違っていても、なんか変でも。今はそう思っています。