幸せについてのなにかしら その2
人にそうされたことを嫌悪していたのに、けっきょく自分が人にそうしてしまっていることがある。
大抵、後になってから、そう気がつく。
嫌悪していることの中には、本当にはそうしたかったけれどそうはできないことがある。なんらかの理由で実現不能に見えているから嫌悪してしまう。そうやって自分から遠ざけようとするのかもしれない。
そして、結局それをしてしまっている自分。本当はそれをしたくてしたくて仕方なかったのだから。
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私のことをほとんど知りもしない人に好意を持たれることを、私は嫌悪していた。しかし、それとほとんど似たようなことを、自分がしてしまっていたかもしれないことに、最近気がついた。
そのことについて、一瞬じぶんで自分を醜いと思った。
でも、人のことを”知っている”ってどうやったら実現できるのだろう、とも思った。どんな出会いかたをしようが、人は人を騙すかもしれないし、嘘をついていると意識せずに嘘をつくかもしれない。魅力的な人の前で自分を良く魅せるなんて、人には往々にしてありそうなことだと思ったりする。
何に自分が現れているかなんて誰についても確実には言えないことだけど、それが外見でしかなくても、なんかいい人そうだなー、というただそれだけだけのことでもいいんじゃないか。恋愛のことだけ言ってないですよ。人と人の出会い方なんて、たぶん、なんだっていい。事故みたいに出遭った二人が無二の親友になることだってあるのかもしれない。何かの魅力を感じたのなら、それだけで人を見つめるのに充分なんじゃないか。
そう思えたら、過去の自分に起きたいろんな出来事へのわだかまりもスルリと抜け落ちた。自分に感じていたことにも、嫌悪感はほとんどなくなった。
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自分の本当にしたくてしたくて仕方なかったこと、でもそれをなんらかの理由で自分の中に押し隠したり嫌悪していることって、結構あるんじゃないか。
昨日も書いたことだけれど、ぼくはとにかく人を信頼したかった。それから、とにかく人に信頼されたかった。でも、その裏側で、もっといろんな人と気軽に出会っておしゃべりしたかった。そんな願望があったのかもしれない。そういうものを押し隠していたと思う。軽い出会いなんていけ好かねえ、だなんて思っていたのかもしれない。それってただ自信がなかっただけなんじゃないか。いろんな言い訳をして誤魔化して、ずっと孤独でいてしまったような気がしてる。そうやって信頼している人も、信頼してくれていた人も失ってしまった。
なにもかもについて、自分のしたいことに忠実であることはもちろん不可能ではあるけれど。自分のしたいこと、一緒にいたい人、そんなことをしっかりと見据えることができるなら、たぶん、それは幸せにつながっていると思う。