どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

現実のコミュニケーション、Twitterのコミュニケーション

 コミュニケーションについて今更になって気がついたことがあったので、考えながら少し書いてみます。
 とても恥ずかしいことですが、ある理由から、人との関わりがほぼネットだけという時期が自分にはあった。まぁ、引きこもりってわけです。Twitterは基本的に自分の興味を呟くものとして使っていました。人によっては他人をマウントするために使ったりするようですけど。自分の興味とか、自分の考えとかを書く場として使っていたと思います。
 その延長にTwitterでの人との関わりがあった、という感じ。そうすると必然的に自分が興味を持っていることについての話題か、相手の興味を持っていることについての話題になるわけです。そのことについて自分はこう思うとか、それは違うと思うとか、まぁ大雑把にそういう感じ。
 それが自分のTwitter社会(?)では当たり前のことだったわけです。Twitterに正しい使い方があるわけではないけれど、そんなに変なことでもないと思う。
 それで、現実ではまったくそうはいかないわけです。当たり前の話ですが。相手が自分の話に興味を持っているかどうかを察することができないとしたら、そのコミュニケーションはうまくいかない。自分の興味を一方的に話すだけでは決してうまくいくことはないわけです。
 現実の出会いを一概には言えないけれど、何もかも(興味だけでなく)を受け入れてくれるような人はほとんどいないわけです。親子とか夫婦とかでも難しい。みんな何かを看過して、なんとかうまくやっていくものだから。当たり前だけどね。
 Twitterだろうが現実だろうが、どこでだってそうですが、誰もが自分に興味を持っているわけではないのです。ネットではそういう人が集まってきやすい傾向にはあるけれど、それだって、ただの勘違いなのかもしれない。本当に一つの要因やキーワードだけで人と関わることができてしまう。自分で自分に興味を持って欲しい(?)と思っているところを、相手が興味を持っているとは全然限らないわけです。ひょっとしたら、ただ観測するためにフォローしているというだけなのかもしれないし(それはちょっと邪推しすぎだとは思うけど)。
 僕はネットの向こうに人がいる、という価値観を持っている方ではあると思うけれど、ネットで得られる情報は確実にかなり限られてしまっている。自分を良いように書くことなんて簡単にできてしまうし、マウント取るために人格否定も簡単にできてしまう。実際に会ったとしても簡単にはわからないし了解しあえないかもしれないことばかりなのに、なんで僕たちはネットで何かが分かった気になっていたのだろう。
 ネットはどう足掻いても空虚だと最近は思うようになった。それは自分が求めていることとは違う。たぶん、ここだけでは人を本来的に信頼することは難しいんじゃないか。少なくとも自分にとっては。というか、どこにいたって、人を信頼したり、信頼されたりすることはかなり困難であるのに、限られた世界では余計に困難なことは明白なことだ。
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 当たり前だけど、Twitterの延長に現実を考えることは確実に間違っている。
 現実の補完としてTwitterを使わない人もいる(TwitterTwitterとして使う人もいる。それは向こうに人がいるという価値観とは矛盾しない)。
 そこを取り違うとまぁ、現実も、Twitterもうまくいかないですよね、という話。
 今の僕には、人との関わりがネットだけというわけでもありません。ネットでどんな人とこれから出会っていくのかもわからない。というかどうやって振る舞っていくのかも試行錯誤していくんじゃないですかね。そんな感じです。