美しい、君に見せなくては。

Girls Don't Cry, Boys Be Smile.

歪んでいる自分、素直な自分

 先日書いた自分を悪く思うこと、人を悪く思うこと - 美しい、君に見せなくては。の続きです。トラウマとそれに付随する楽しかった記憶のつながりについての話でした。
 人は良いことをすることもあれば、次の瞬間には醜悪だったりする。それを了解できる範囲でみんな関わり合っている。そうできないのなら、一緒にはいられない。あるいは、何かを媒介にして関わるんだろう。例えば賃金とか、仲間との結束とか、生活していくため、とか。
 楽しみと苦しみ、あるいは良いことと悪いことはなんだか表裏一体なんじゃないかと思ったりする。楽しいことと苦しいことが混じり合ってこそ、楽しみは苦しいし、苦しみは楽しい。悪いことはしないほうがいいけれど、人間はたぶん、そういうものだから。良いことだけをする人なんて、僕には想像がつかない。
 トラウマをトラウマにしているのは、そこに楽しかった記憶があるから。そこにトラウマなりコンプレックスなりがあるとしたら、何かに執着してしまうのだとしたら、それと自分を繋いでいるのは、たぶん、楽しかった記憶だけではなくて、もっと深く心の中に根ざしたなにか。例えば、「信頼」とか。
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 信頼を裏切ることは、やっぱり、悪いことなんじゃないか。
 トラウマとか楽しかったとか、ぜんぶ、それらを苦しく思うのは、執着しているからだ。いまの自分が。
 問題なのは、「いま」の「自分」が、「どうしたいのか」、ってそれだけなのだと思う。本当に自分がしたいことはなんなのか、本当に自分が想っていることはなんなのか、という、たったそれだけなんじゃないか。
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 僕はそれを安易に示してしまっていた。何かを意識して隠そうとはしていなかった。無意識が表層に出てしまう、といったらいいか。
 苦しいことを苦しいという。悩んでいることを悩んでいる、という。
「それ」が外界に飛び出ていることに、自分でも気がついていない。そのくらい(よく言えば)ナチュラルにいろんなことを考えて、行動してしまっていた。欲望に忠実だし、それを人にどう思われるか、について配慮することをほとんどしなかった。
 そういったことが、僕自身の幼さから来るものなのか、僕の本質的な何かであるのかはわからない。でも、たぶん社会の中ではとても不利なのだ。現実としてずっとそうだったのだから。そういうことはたぶん僕が感じているトラウマとも繋がっている。
 自分の嫌な面はどんどん無作為に出ていってしまう。それは、どんな人間関係だとしても、決してうまくいくわけがない。
 でも、だからこそ、それをコントロールできさえすれば、「表現」ができる。そう思ったりもする。
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「信頼を裏切ってしまった自分」を、「信頼」できないでいる。人を裏切ると同時に、わたしは自分をも裏切ってしまった。
 そうやって、自分は歪んだと思う。
 自分を悪く思うことで自分に罰を与えても仕方がなくて。ただ自分を悪く思うだけでは、何も解決しない。自分はずっと歪んだまま。
 歪んだままの自分を示してしまえば、さらに自分は歪んでしまう。人からも当然そう思われるし、自分でもさらにそう思い込む。そういう悪循環があったんじゃないか。
 歪んでいる自分をなんとかするために、自分を信頼してくれる誰かを探していたし、誰かを信頼したいとも思っていた。でも、ネットの限られた情報の中で、自分を適切に示して、人を見つめて、信頼し合うことは自分には難しかった。そして、その時にはそうするしか人と関わる方法はなかった。
 ネットにだって、もっと可能性はあると思うんだけど、自分はうまく使えていない。
 いろんなことが間違っていたと今になって思う。
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 無意識に示してしまっていることと、自分のこうでありたいということに乖離がある。それは、自分が歪んでいるから。本当には素直でないから。だからトラウマも楽しみも、うまく扱うことができない。

問題なのは、「いま」の「自分」が、「どうしたいのか」、ってそれだけなのだと思う。本当に自分がしたいことはなんなのか、本当に自分が想っていることはなんなのか、という、たったそれだけなんじゃないか。

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 何がしたいのか、って、そりゃあ、楽しく生きていたいよ。それさえできたらなんだっていいし、そのためにならなんだってやるってだけなんじゃないの。いつまでも歪んでたら、楽しく生きることはできない。
 今日はこの辺でおしまい。