どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分の本当にしたいことを実現すること

 親が大人として、大人であることを楽しんでいるようには全然見えなかったから、大人になることにそもそも期待していなかったし、そんなに楽しいものでもないと思ってた。それは友情も仕事も恋愛も結婚もたぶん子育てについても同じように思っていたと思う。
 ありとあらゆる大人としての行為や信頼や楽しみについて、ぼくは疑ってしまっていたような気がする。生きていくことの意義について。何かを実現していくということについて。親は私の将来したいことをできるように仕向けるのに、その本人たちは何も自分たちの欲求を叶えているようには見えなかった。それがなんだか腑に落ちなかった。私たちはいつも不幸だったように思う。

 でも、少なくとも僕が今まで経験してきた仕事は総じて面白かった。楽しかった。今の仕事ももちろん。
 それは仕事をすることで自分が信頼してもらえるからなのだと思う。こういう感覚は、仕事を通してしか味わえなかった。

 大人としての楽しみを最近わかってきたのかもしれない。それは甘い恋愛でもなく、もちろんセックスでもない。欲しいものが買えるとか、そういうことでもない。

 自分のしたいことを実現できること。
 そして、そのことによって人に信頼されるということ。

 信頼されることにはいろんな形がきっとあって、恋愛もその形の一つではあるのだろうけれど、そうでない時もある。だから、僕にはしんどく感じていたのだろう。
 自分のしたいことを明確にわかっている人は、そこに向かい続けることでしかない。頭を使うだけではなくて、考えを尽くして、人を頼って、縁に乗って。

 自分の中の欲求を、安易に満たしていたくない。
 この世界は欲求を「適」えるのに都合がいい。刺激的なものは多い。誘惑も多い。そういうものに、ぼくは簡単に流されてしまう。流れてくる文字列はいつも刺激的。でもそのほとんどはぼくの欲求とは関係のない、人から与えられた欲求。
 人生の楽しみって、たかが知れているのかも知れない。ぼくの欲求は簡単にすり替わり、いつの間にか元々の自分を失っている。

 本当にわたくしのしたかったことはなんだったのか? 
 なぜそれを諦めたのだろう? 
 自分を恐れている要因はなにか? 
 わたしが言い訳にしていたのはなんだったのか? 

 そういう問いのすべてが、ぼくを楽しみへとけしかけてくれる。

 人は簡単に死んでしまうし、簡単に閉じて、簡単に堕ちていく。いつの間にか居なくなる。
 今この機会を逃したら、もう一生涯やって来ないその瞬間を、ぼくたちは逃し続けてる。
 簡単にはなにも実現できそうにない人生だったから、余計にそう思う。だから、今こそ、と強くつよく思えているのかも。

 簡単ではなくても、したいことを実現していく。その過程が正しければ、きっと人に信頼されるんだろう。
 そうやって人生を楽しんでいくんじゃないか、といまは思ってる。