どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

欠点のない人はいないということ、信頼するということ

 人に拒絶されることを恐れて、自分の方から拒絶してしまう。人と人との関係が、お互い様であることはわかっているはずなのに。
 でも、たぶん、本当にはわかっていない。
 嫌な自分を認知するのが嫌なのかもしれない。それって、自分自身と向き合えていないということ。現実から、目を背けているということ。
 それに、人に嫌なところがあることにも、受け入れ難いと思ってしまうのではないか。
 完璧な人間なんていない。もちろん。当たり前のこと。自分のことだってそうだ、と思っているはず。はずなのに。
 この人はこういうところが、と、心の中で人のことを貶めてしまったりする。そうやって、人と距離をとる理由を作っている。完全な人なんていないから、誰にとってだって、なにかしらある。何も欠点のない人なんていない。
 人との軋轢のとき。自分を貶めてもいる。自省しているというか、自分のことを、ダメな人間だ、とか、自分は人にとって信頼に値しない人間だ、と思ったりする。不甲斐なかったり、情けなかったり。それは本当のこと。
 でも、それをさえ棚に上げてしまっているのではないか。たぶん、自分にふさわしい人、なんていない。自分なんかにだから、ということではなくて、誰にとっても。みんな人を許して、信頼して生きている。いろんなことを棚に上げて、誰をも許せない人間には、誰をも信頼することはできない。
 信頼している人もいて、でも、そうじゃない人もいる。互いに理解し合えていない人もいる。なんか、ダメになってしまった人もいる。
 自分だけの問題ではないにせよ、自分の問題でもある。
 要するに、人との縁をどう扱っていくのか、ってこと。切れてはいけない縁はないように思うし、どうしても繋がらなくてはならない縁というのもないように思う。
 だけど。一度でも、心が通ったように思った人たちと、つまり、今までに出逢った人たちと、ぼくはうまく付き合えていなかったんじゃないか、って。
 自分を貶めても、人を貶めても、たぶん、縁が離れてしまっては、それは縁ではもうなくて。良いところを認め合って、ダメなところも認め合って、それでこそ人間関係であると思うのに。それでこそ信頼しているということなのに。
 それを実践できていない。
 それが、人の嫌なところを見たくないからなのかもしれないし、自分の嫌なところも見たくないからなのかもしれない。人に嫌われているという自分を自覚することは、自分の心が痛い。自分を含めて、欠陥のない人はいないとわかりつつも、自分にも、人にも、完璧な人間であることを求めているのかもしれない。
 人には、許せることと、許せないこととある。それは人によってもぜんぜん違うし、認める、認めない、信頼する信頼しない、そういうことも同様なのでは。いろんな関係の中で、人とひとが、理解し合って、譲歩しつつ、信頼し合っていくものなんじゃないの。
 自分にも、人にも、完璧な人間であることを求めてしまっていた。それは、破綻した生き方、破綻した考え方なんじゃないか。そう思った。