どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

ピュアネスといういたたまれなさ

 人に、この人はピュアな人、と形容されたことがあったのだけど、それは別に褒めているというわけではなくて。
 ピュアな人って、ときにその人を見ていることがいたたまれなくなったりする。目を背けたくなるというか、見ているとむずがゆくなったりするよなと、自分では思う。
 それは、すくなくとも表現のしかたを誤っているから。きちんと自分を社会的に抑えることを、自分はできていない。たぶん、そういうことを小学校に上がる前くらいから少しずつ学んでいくのだろうけれど、私はそういうことを体得しなかった。ある程度は得たのであろうけれど、得ていないことも多いんじゃないか。それが人と比べてどのくらいのものなのか、よくわからない。
 人は、歳相応でない幼さや、取り繕うべきときに取り繕わなかったり、そうするべきでないときに自分を良く魅せようとすることに、目を背ける。
 (当たり前だけれど、倫理の範囲で)抑えるべきものを抑えていないことは、人の反感を買う。当たり前に制御できることをできないことに、不気味に思う人もいただろう。人によっては自分勝手な人だとか、いっただろう。
 自分を表現することについて、抑えようともしていなかった。表現して恥ずかしいことなんてないと思っている。受け入れられにくい示し方をしてしまっていることには気がついている。
 変にカッコつけるとか、気取った感じとか、自分に合っていない。自分の範囲をはみ出しているとき、悪ノリしているな、と感じる。
 後からなんであんなことしたんだろうな、と思ったりすることがある。なんだか羽目を外している時があるのだ。そのときにはそれがイイとたぶん思っている。でも、大した検討もしていない。ノリだけなのである。
 客観性が、自分にはない。
 ぼくはいま、ぼく自身を負っている人が自分しかいないと思っているんだと思う。自分の社会的責任を、自分の印象みたいなものを、自分だけで負っているつもりになっている。自分が何かをすることによって、何かを負わされている人のことを、ほとんど考えていないんじゃないか。あるいは、人がすることや、人が私を信頼することによって自分が何かを負うことについても、ほとんど無頓着である。
 自分は自分を負っているし、自分と関わっている人のことも当然に負っている。なにかしらを。自分のことをどう思われても、良いなんて、オカシイと思う。自分のことを、もっと大事にした方がいい。自分と関わっている人のことも、もっと、もっと、大事にして。信頼を無為にすることになる。
 ピュアネスは自分の中に大事に持っていたらいい。何かの役に立つのならそう表現したらいい。出しどころさえ真っ当であれば、それはきっと、魅力になる。そう思ってる。