どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

虚しい、というはなし

 なんというか、ここ数年で自分がネットでしてきたことのすべてのことを人に嘲笑われていたのかな、と思い至って、とても虚しい気持ちになった。怒りとか湧いてきそうなものだけど、そういう感情は別にない。だって、そうでしか生きることができなかったから。それによって生きたとは言えないけど、そうすることによって自分を確かに生きさせていたから。
 自分のしていたことを人にどう思われていようと関係ないと思ってしまう。関係ないはずなのに、なんだか、とてつもなく、虚しい。そこにはきっと、自分の世間知らずさとか、独りよがりさとか、現実のわかってなさに溢れていて、私はそのことについて虚しいのかもしれない。そういう現実と最近は向き合いつつあるのだと思うけど、自分の中に答えはない。
 元・障害者には難しい面があると思う。障害を生きた事実は一生消えることはなくて、でも、それに甘えてしまうことは、自分を弱くしてしまう。障害のあったことを意識せずに生きていくことを選び続けることは、とてつもなく難しい。だって確実にそこに存在しているもの。例えば、私の経歴とか人格とかなんかそういうことには、表現されてしまっている。なんだって障害を言い訳にできてしまうもの。弱みとして存在してしまっている。ふと、いまの自分を否定している自分がいる。でも、やっぱりそれは、私にとってよくないことだ。そうわかっていたって、どう現実と向き合っていったらいいのか、やっぱりわからない。こういうことを書くことでさえ、やっぱり、意識してしまっている証拠。
 僕はいろんなことに従順すぎるし、良い人であろうとし過ぎる。自分の価値観が脅かされる時に、私は怒りを抱いて行動できるのか、わからない。別に自分が良い人であると言いたいわけではなくて、人と無難にやっていくことでしか、生きていることができなかった。人との間に自分の主張なんてなくて、ただ寡黙にやりたいことをやっていただけだった。その主戦場はネットでしかなかった。そこでしていたことについては、別に自分ではなんとも思っていない。その時はそれが必要だった。今はそうでもないかもしなれない。
 今の自分はどうなんだ、ということをよく口走っているけど。今すぐに結果の出ることばかりではないし、いろんなことに根を詰めている気がするけど、それでこの先どうなるんだろう、ってやっぱりわからない。なんか、やりたいことをやっているってだけだと思う。
 いまの自分自身がいまの自分をどう思うか、ということが大事。それが自分のしたいことではないのなら、潔くやめて、その時間を「いま」自分がしたいことに当てた方がいい。
 でも、やっぱり、直接私に何か言ってくる人がいたら、それはやっぱり受け入れるだろうし、そのことによって自分が変わることを許すんだろう。
 愛する人のために時間を割くことだってもちろんある。自分のためだけに生きているわけじゃない。自分一人で生きているわけではないもの。当たり前の話。
 人にどう思われてもいい、という感覚は確実に自分を焼くんだろう。自分という人間を負っているのは自分だけでないのだから、自分と関わる人にとって、人にどう思われてもいい、という人間は忌むべきものになってしまう。そういう客観性は言葉としては理解していても、やっぱり、「人にどう思われるか」ということについてはなんの感情も湧かない。ただ社会的にどうかとか倫理的にどうかとかそういう程度でしかできない。そこだって逸脱しつつあった人生で、やっぱり自分は変なんだ。それでは、信頼のされようがない。
 自分の向き合うべき「いま」なんて、本当に些細なことだ。やたら難しくしているのは自分に過ぎない。自分のしている一挙手一投足を、自問自答を、いろんな思いを、ただただ見つめて、ただただ考えて、ただただ叶えようとし続けるだけなんじゃないの。人生ってそれだけって気がしてる。