どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

解き放たれつつある万能感

 以前に、「〜していかないとダメになる」というような、ルールが多すぎるんじゃないか、と友達に言われたということを書いたと思う。そのことがずっと気にかかっていた。今日はそのことについて書きます。
 たぶん、それは万能感によるものなんじゃないか。なにかをやったら、それが全部できるようになる、という考えを自分は持っていた。正確にいえば今だって持っている。人をコントロールしようとしていた節もある。同居人が思うように動いてくれなくてモヤモヤしたり。
 当たり前だけど、人は人で、自分の範疇にいる人なんていない。それは誰にとってもそう、誰が相手だとしてもそう。
 ルールとか義務が多いことがなんで万能感なのかって、自分にできることと、そうでないことの区別がついていないから。ルールを設けてクリアーしていったり、努力することで、自分のしたいことが叶うと思っている。それが友達には過剰に見えたんじゃないか。もっとみんな穏やかに余裕を持って生きているんだよ、というようなことを言われたんだと思う。
 少なくとも、自分は大した人間ではない。ちょっとは人の役に立てるかもしれないし、何かいいことができることもあるかもしれないけれど、その程度のこと。
 自分を過大評価していたんじゃないか。
 なんだって、いつかはできるはずという風に確かにやっていた。そうできるはずだと疑っていなかった。それを指してあんたは子供みたいだと言われたこともあった。そのことも気にかかってた。
 何かを諦めるのは嫌だと思ってた。あらゆる挫折について見て見ぬ振りをしていた。現実と向き合っていないのはしんどい、だから向き合いたいということをうまく飲み込めていなかったのは、そういうわけなのだと思う。とても不安定だった。それは、自分の中に万能感があったせい。今でも、それがどうなっているのか、よくわからない。
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 人と関わらないようにするような障害について、そのことでやっとわかったことがある。
 わたしはある現実を見て見ぬ振りをしていた。そうやって今まで現実逃避していたのではないか。誰とも比較されず、現実を見なくて済むように自分を仕向けていたんじゃないか。
 自分の障害をどう捉えるのかは、自分次第だと思う。人のことをどう捉えるのかと同じこと。でも、自分に逃げている気持ちがなかったわけじゃなかったと思う。人にそのことをどう思われたとしても、仕方がない。
 今の自分をどう捉えていったらいいのか。それが向き合いたくない現実であることは違いない。それでもそれが自分の現実である。ずっと前から困難でしかなかった現実である。今の自分がどうするのか、って、それは、自信とともにちゃんと生きていくってことなんじゃないの。自分をどう捉えられているのかなんて、やっぱりわからない。だけど、自分を捉えている自分だって確かにいる。それでどうなのか、っていうそれだけなのだと思う。伸るか反るかなんてわからない。人生がどうなるのかなんてのもわからない。
 幸いにして、いい人が側にいてくれて、やりがいのある楽しめる仕事があって、自分次第でなんとかなるところにいる。「ぬかりなく」というのが今の自分にはピンと来るんです。
 自分が現実と向き合うきっかけというのがあって、(逆説的な話だけど)自分の妄想を表現するようになってからだと思うのだけど、それはまた機会があったら。