現実と妄想と、それと向き合っている人の美しさ
現実に寄りかからない妄想は戯言に過ぎない。
こうあって欲しいことをただ唱えていたって仕方ない。
現実的に考えることでしか、それをし続けることはできない。もちろん、生き続けることもできない。
だからといって妄想や夢や、こうありたいという希望なしには、やっぱり生きられない。
希望のようなものを捨てざるを得ない人をいくらでも見た。
現実的に考えようとしない人のことを社会がどう見ているのかも知ってるつもり。
自分のしたいことをできる人ってのは、選ばれし人なのだろうか?
したいことを試みるだけで、それが現実的でないなんて、どうして言えるだろう?
何かをすることについて、できるという根拠なんてあり得るんだろうか?
なんだかぼくはいろんなことについて、むなしく感じてる。
心の折れている人を思ってる。何かを諦めて毎日を粛々と生きている人のことを、思ってる。
どんな方法でもいいから、自分と向き合い続けて、それから人と向き合い続けることでしか、人生が先に進むことはないのに。
人の限界というものに、ぼくは未だに納得ができていない。よくわかっていない。
何を表現するにしても、そうすることを恥ずかしがっていては、スタートラインにも立てない。何かを表明することも、大事な人に大事なことを伝えることも、具体的に行動することも、何もできない。人はいろんなことを言い訳にして表現しないようにしてる。表現する必要がないとか、ただ面倒だとか。これは人に見せるべきものではないとか。どうせ伝わらないとか。誤解されるのが怖いとか。自分に自信がないとか。本性を知られるのが怖いとか。
自分なんかに、と、自分を「怖れた」瞬間に、何かが瓦解する。立ち往かなくなってしまう。何がが閉ざされてしまう。
可能性とか限界とか、できるとかできないとか、開いてるとか閉じてるとか、縁があるとかないとか、親しくなりたいとか関わるのはもう無理とか、人生に於いてそんなことは些細なことだ。
いくらでもやりようがあるのに、いくらでも道はあるのに、いくらでも人を捉えることはできるのに、いくらでも解釈のしようはあるのに、いくらでも機会を持つことはできるのに、いくらでも素直になることはできるのに。
自分を本当に捉えているのは、自分でしかなくて、自分を自分のいいように動かしているのも、自分。そうすることを甘んじて受け入れているのも自分。切り拓こうとしないのも、意固地になっているのも自分。何をわたしが求めているのかなんて、わかっているはずなのに。それから目を背けるのも自分。何かを試そうともしないのも、自分と向き合おうとしないのも、過ちを謝ろうともしないのも、全部、自分。
ぜんぶ、あますことなく、自分に返ってくる。だって、現実だから。
妄想にも、なにかしらの役割がきっとある。ただ、妄想には扱い方があるんだと思う。
人には妄想も現実も、両方ある。
真摯になにかと向き合っている人は、美しい。どんな容姿でも。どんな人格でも。どんな境遇だとしても。
自分もそうありたいし、そうしようとしている人と、関わっていたい。