自分をごまかしていることを洗いざらい
あるきっかけから、ぼくは自分をごまかしているのではないか、ということに思い至りました。
それは日常の中にも深く入り込んでいるし、人生全体が向かっていくことについても言えることだ。日常の一つひとつから人生は作られているのだから、まぁ、当たり前なのだけど。
そういうことを一つひとつ見直していこうかなぁ、という文章です。
自分自身をごまかして生きることについて、人に対して何かを言うつもりもない。そう生きるのであれば、そう生きたらいい。それについての自分の破綻と折り合いがつくのであれば。ぼくはそうではなかった、というだけの話。
たぶん、ここにはぼくが何に向かっていくつもりなのか、にはあまり触れないと思う。なるべく普遍性を持たせたかったから。
それから、一部分に下ネタを含んでいるので、そういうのを読みたくない人は読まないほうがいいと思います。
自分が、なるべく楽しく生き残ることをまずは考えるべきなのでは。
どんな年齢だとしても、どんな収入を得ていたとしても、どんな家族構成だとしても、どんな境遇だとしても、どんな人格だとしても、不幸にして明日死んでしまうかもしれない。
まぁ、あと何十年は生きると仮定したとしても、その時間をどう過ごしていくのか、っていうのは、当たり前に大事なこと。
誰と過ごすのか、何処で過ごすのか、どうやって過ごすのか、それを『現実的に』考えるということ。
楽しく生き残るためにできることについて、甘えるなよ、怖がるなよ、するべきことをし尽くせよ、ということ。ぬかりなく、というやつです。それは日々していることについても、その積み重ねである人生全体のことも。
今のぼくは、ぼくの周りにいる人にとって、どのくらい亡くして惜しい人間なのだろうか? とかさ。なんか、そういうことも。
それで、自分をごまかすための代替行動というのがありそうなので、それを今日は列挙していきます。代替行動をして、自分をごまかして、どうやって自分と向き合うんだよ、ということなので。やるべきことはもっとたくさんあるはずなのに、というやつです。そういうことを可視化するのが目的。
現実と向き合わないための代替行動
自分の置かれている状況を知ろうとしない
例えば、今の自分に何ができて、何を求められていて、あと何年働けて、あと何年生きることができて、
あと何年今の家族と暮らせて、それから何年独りで生きて、あるいは誰かと生きるのだろうか、とか、なんかそういうこと。
何を楽しいと思っているのか、何をすることに心踊るのか、何に興味を持っているのか、何をしないと心に誓っているのか。
具体的には、
- 今月は何文字書けるのだろう
- 今月使えるお金はとりあえずはいくらなのか
- 音楽を聴きにどのくらい出掛けられるのか
- 何人の人と会えるのか
- 新しい技術をどのくらい習得できるのか
- 今月は本を何冊読めるのか
自分のことを知ろうとしない
- 自分はどういう時にどういう行動をするのだろうか
- 自分の良い時というのはどういう時だろう
睡眠時間、起きた時間、寝た時間、体重、排尿排便、起きた時の体温、仕事が順調であるかどうか、人と楽しく会話できたかどうか。
- 自分のしている行動に責任を持っているだろうか
- 失敗したと思うことについて、どのくらいその対策をしているだろうか
- 精神面の疲労度
精神が健康でない人に、まともなものが書けるわけがない。良い仕事ができるわけがない。人格がどんどん破綻していくことを、敏感に察知できるだろうか。
精神面の疲れや、困迫は肉体に簡単に現れる。身体に不調を感じたなら、いろんなことに目配せすること。ただ身体が壊れているだけでなく、精神に破綻をきたしている可能性は十分にある。特に自分の場合は。
- 肉体面の疲労度
疲れていると感じたら、積極的に休むこと。1日寝ていたって、別に構わない日もあるはず。どうしても必要なら自分で作る以外にない。良い休養で、良い仕事ができるし、良いものを書く準備がとりあえずはできる。
- 自分の機嫌を自分でとるということ
イライラてしている自分に気がついているか。
一人でいるよりも、人といる時の方が自分の気分というものはよりよく分かるものだ。だからといって、それを人にぶつけるのではなく、自分の中に諌める方法を持つこと。慣れ親しんだ人を前にすると、甘えて特にそうしがちであるので気をつけること。誰に対してだとしても、そうしていい理屈はないはず。
過去のことを考える
過去のことを憂いていたって、今の自分が変わるというわけでもない。解釈をするだけして、あとは今の自分はどうしたいのか、それでいいのだと思う。失われたものは簡単には返ってこないし、自分に選択権が回ってきたのだとしたら、それを決めるのは、間違いなく「今」の自分でしかない。今の自分はどうしたいんだよ! ということでしかない。
未来のことを考える
未来のことを考えて不安になること。未来を見定めて、そこに向かって一つずつ階段を登っていくこともできるのだろうけど、人生はいつも思い通りにいくわけでもない。それに、それでは面白くないのでは。ひょんなことから降って湧いたことに、自分を尽くすだけでも、人生は充分に面白いものになりうると、今は思ったりする。それに興味を持てるのなら、ということだけど。
他人のことを思う
人は基本的にはみんな独りだ。恋人がいたとしても、配偶者がいたとしても、子供を授かったとしても、死ぬ時には必ず独りになる。誰と暮らしていくにしても、一人で暮らしていくにしても、自分で何かを感じて、自分で考えて、自分で行動する人でない限り、それは生きているとは言えない。どんなに幼くても、どんな不幸を抱えていても。道は基本的に自分で切り拓くものだ。それを互いに助け合える人と一緒にいるのがいいんじゃないの。
今はそういう人はいないのだから、他人のことは考えずに、とりあえずは自分が生き残る方法を考えて、し尽くすべきなのでは。
あるいは、ここに書いたようなことができないのであれば、それは、誰と出会ったとしても、うまくいかないのだろう。それはいろんなことを踏まえて言っている。
アクセス解析を見る
アクセス解析を見ることは承認欲求を満たしたいから、ただそれだけ。承認欲求を満たしたところで、自分が生き残ることができるわけでも、自分のやりたいことができるようになるわけでもない。ただ時間の無駄なのでは。
アクセスがあろうとなかろうと、ぼくの人生に何かの影響があるというわけでもない。ネットにそんなことを求めても仕方がないことは、はっきりしている。
では、なぜ書くのか、という問いにはここでは答えない。
ネットの人のことを考える
ぼくのことをネットを介してしか知らない人の持っている、ぼくについての情報を、過信してはならない。みんな何かを勘違いしているとしか思えない。
みんな、ぼくが何を知っていて、あるいは何を知らなくて、何を理解していて、何を考えていて、何をできるのか、何に感化される人間であるのか、何を言葉にできる人間であるのか、そもそも知らないし、思いも馳せることはない。
逆に言えば、そういうことに興味を持っているような人は、きっと何かしらのリアクションをしてくださる人で、そして、そういう人とどう関わっていったらいいのか、よくわからない。互いに欠けた情報で、「気の合う」なんて幻想なんじゃないのか。
寂しさを紛らわすための代替行動
ネットに人との繋がりを求める。
ネットだけの関わりについて、ぼくのことをどう見られていようとも、それは幻想であると思うようになった。
その時に救いだったのは、社会の中で自分のことを認めてくれる人がいたことだった。自分がどのくらい人の役に立てるのだろうか、ということについて、不安もあったのだけど、心配はないのではないか、とりあえず今のところは。足りないこともあるっぽいのだけど、まぁなんとかなるんじゃないか。もちろん社会において深刻なことはある。年齢とかそういう感じのこと。それこそ自分と向き合って、受け負っていくことだ。
必要な時には必要だった、ただそれだけのことなのでは。
アクセス解析を見て承認欲求を満たそうとする。
どのくらい人がブログを『見て』いようと、私のことをその人たちが認めているというわけでもないし、書いたものをどうとも思っていないことは明らかなことだ。その瞬間には何かを感じたとしても、それを閉じた5秒後には全てを忘れてしまっている。
自慰行為
体力的な問題なのか、した後や翌日にひどく消耗するようになった。きちんと仕事をしたり、書くことに集中するために、する必要のないことはしない。
おかずを選ぶ時間がとても惜しい。とにかく時間がない中でぐずぐずしているのが嫌になってしまった。
でも、まぁ、ストレス発散にはなるよね、、。
かといって、相手がいるのならセックスするのかというと、それはよくわからない。するならするかもしれない。セックスすることでの、心の開かれ具合というのは、他では代替できないとは思う。それによって自分を知るということもあるんだろう。
人を愛することが尊いことは言わずもがな。
とりあえず、セックスについては保留。相手もないのに考えたって仕方がない。たぶん、みんなこのことについては都合よく考えている。
言葉にすること自体が代替行動になりうること
言葉にすることで、自分と向き合うこともできる。単なる妄想ではなく、自分の内部を表面化するような、何かを暴くような。そうすることを恥ずかしがらなければとりあえずはいいと思うのだけど。でも、言葉にすることで失うものもありそうだと最近は思う。言葉にして安心してしまうことが多すぎる。実態が伴っていない。
それらが寂しさを紛らわすとか、現実と向き合わないための行動であるのなら、意味がない。