どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

書かれたものによってその人の何かを思うこと

 書いたものには、たぶん、ぼくの何かが書かれてはいるけれど、だからといって、書いたものを通してその書いた人のことがわかるなんて幻想なのだと思う。だって、それはそういうものだから。書かれたものがどんなものであろうとも、それは書いた人の人格とはほとんど関係がない。ただそれを書いた、というだけです。その人は何かがわかっているのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。書いたことをそのまま実行・実現できるというわけでもない。嘘を書くつもりがなくても、嘘になってしまうこともある。書いたものがどんなに立派だとしても、書いた本人はクズだなんて枚挙に暇がないように思う。
 書いたものによって、書いた当人を評価することには疑問があるってこと。書いたことは素晴らしい。でもその人本人はどうなのか、それは人によって違うんだろう。無条件に誰にとっても素晴らしい人なんていない。誰にでも好かれるなんてありえない。完璧な人もいないし、欠点のない人もいない。
 ただ書く。それだけなんだ。書いたことによってどうこうということでもないし、それによってぼくのことをどうこうということでもないはず。
 人として評価されるためには、社会でするべきことをして、真っ当に評価された方が確実で手っ取り早い。評価している相手がどんな人なのかも分かる。その評価がどのようなものに依って、どういう価値基準でされたものであるのかも、分かることもあるだろう。誤解によって評価されてしまうということもあるのだし、評価に異論があれば、議論したっていいし、修正だってできるかもしれない。耐えられない評価について修正もできないのなら、現実であれば立ち去ることだってできるだろう。
 ネットにおいて貼り付けられたラベルは、そう簡単ではない。相手がどんな人なのかもわからず、その評価の拠り所もよくわからない。ネットで与えられた限られた情報の中で正しく評価できていると思うのなら、それはやっぱり幻なんじゃないか。意思の疎通が難しいことも多いし、シャットアウトすることも簡単。ただ、ネットアカウントを消したら、それで自分のしたことがなくなると思っている人がいるとしたら、それは間違いだと思う。それは現実で関わらないようにするとか立ち去るというのとはかなりニュアンスが違うと思うけど、まぁいいや。いや、やっぱり似たようなものなのだろうか。なんか違う話題になってしまった。
 ネットには良いところもあると思ってる。不特定多数の人に、あるパラメーターだけを以って判断されようと思ったら、こんなに都合のいい場はない。容姿も学歴も年齢も職業も、障害さえも、関係がない。ただ書いたものだけで評価され得るのだから。良いものを書けば、それで良い。それを読むべき人と出会うことだってできるかもしれない。それは書く人にとっては本当にうれしいことだ。文章を書いてそれを人が読む、ということについては、まぁ、いろんな方法があると思うけれど、ネットを使わない手はないと思う。
***
 文章を書くに当たってぼくがしてみたいことの一つに、欠点を欠点に感じさせない、というのがあって。誤魔化さずに欠点として表現するけれど、それはある人にはむしろ長所に見える。それを読んで人は救われるかもしれない。普通はそうはならないわけです。人の欠点を見てしまうと、不安になったり見を逸らそうとする。それがその人にとって無意識のものであればなおさら。でもそうならない人もいる。欠点が長所になっている。そうすることができたら、表現として素晴らしいものになるんじゃないかと思うんです。
 詳しくは書かないけれど、ぼくには宮崎駿さんも、若林正恭さんも、それをやっているように見える。だから、かっこいい。
 振り返ってみると、自分の欠点・欠陥や足りていないことを書くことについて恥じらいもなかった。自分と向き合いたいということはそういうことでもあると思うわけです。そういうことをうまく昇華できていたかどうかはわからないけれど、まぁ、なんかそういうことをしたいわけです。
***
 書いたものは、書いたものですから。それによって何かを判断されても何も困らないようには書いているつもりですけれど。けれど、けれど、けれど。
 人と人は、やっぱり、会ってみなければ、まったくわからないものだと思う。そういうものだと思う。
 現実に足場があるからこそ、これからはより一層「書ける」と思っています。そんな感じです。