どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人は、言葉によって考え、悩む。言葉をうまく扱えたら、どんなにいいだろう

 人が人を拒絶することには必ずなんらかの理由があるはずで、その理由にだって拒絶されたほうは、感受性を傾けるべきなのに。
 ぼくの役に立とうと努めてくれた人がいた。少なくとも、ぼくにはそう感じた。その人は、その人がぼくの役には立てそうにないと悟った瞬間から、何かを諦めてしまったように見えた。
 でもぼくは、解決策が欲しかったわけじゃあない。共になにかの解決に向けて模索してくれる人がいたとしたら、こころ強かったと思うのに。
 でもそれは適わなかった。その人は土俵を降りてしまった。
 何についてだとしても、解決策をそのまま持っている人はそもそもいやしない。
 人の感情や行動をコントロールすることはできない。その人は、ぼくとなにかを模索したくなかったのだ。そう思うことにした。
 拒絶されたという現実によって、思考停止してしまう。現実から目を背けてしまう。それは、自分は気がついていない自分のルールがあるから。
 人は、言葉によって考えて、悩む。言葉をうまく扱えたら、どんなにいいだろう。言葉によって人のなにもかもは、例えば、何かの感じ方とか解釈の仕方とか、はどうにでもなる。
 言葉は人を魅力的にもし、また縛りつけもする。
 楽しく生きるのに、必要なルールだけあったらいい。ルールは言葉でてきている。ただただ具体的に役に立つことだけをしていたらいいのに。
 ぼくは、言葉に翻弄されている。たぶん、いまも。言葉にすることが悪いんじゃなくて、言葉の扱い方を誤っている。過去を憂い、未来を不安視してしまうのは、人の仕様、言葉の仕様らしい。
 自分がどう思うのかと、その人がどう思うのか、が大事なのに。
 人は言葉によって考えて、言葉によって悩む。それをきちんと扱えたら、良い方にいく。
 言葉を正しく扱えないのなら、何をどんなふうに考えたとしても、それは役には立たない。
 そして、ぼくは今の自分の役に立ちそうにない以前のルールを未だ抱えている。その時にはそれが必要だった。でも、いまはそうじゃない。
 どんな自分だとしても、自分「なんか」が、と思うことは、自分が幸せでいるための、なんの役にも立たない。
 人に信頼されようとすることを目指しても仕方ない。それは、自分のしたことの結果であるから。
 でも、ぼくは、人を信頼することができる。
 自信とかやる気とか、卑屈だとか、そういう言葉には中身がないのだ、と本で読んだ。そういうものには実体がない。何かをすることの、例えば、楽しく暮らす役に立つことへの振る舞いかたに過ぎない。具体的に何をするのか、ということが「具体的に」役に立つこと。
 生きるためにはいろんなしかたがある。どうあっても楽しく生きることができる。いまなら、どんな気持ちも受け止められる。受け流すわけではなくて、現実をただ受け止める。
 どんな自分だとしても、やることはわかっている。
 そんな感じです。