どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

わたしにとっての100円

 小さいころに初めてお金を手にしたときのことを、いまだに憶えている。それは、初めて自分の財布というものを手にしてからすぐのことだった。その財布がどうやってわたしの手元にやってきたのかはっきりとは憶えていない。赤いフェルトで出来たくつ下の形をしたお財布。おそらく、クリスマス商品のオマケにくっついてきたものを、母が私にくれたのだろう。
 わたしはそのくつ下を持て余していた。『それ』になにを入れるべきなのかさえも理解していなかった。
 くつ下型の、足を入れるところに付いているファスナーを開け閉めしているわたしを見て、父が自分の小銭入れから100円玉をわたしに手渡してくれた。それが、わたしが初めて手にしたわたしのお金と言えるものだった。わたしはその100円玉を愛でた。「100」という数字は分からなかったけれど、それがお金で、お金でなにができるのかは、なんとなく知っていた。
 わたしは、そのコインをくれた父に申し訳なく思った。愛でつつも、このお金を貰っていいのかと、何度も訊いた。父は、
「いいんだよ」
と応えた。わたしはなぜかしら不安だった。それを使って何かを手に入れられるものを、そんなに簡単に手にしていいのか、と。お金というものは働いて得るものなのではないのか。お金というものが、いかに大事なものなのか、知識として知らされていた。
 お金を手にして不安な顔をしているわたしを見て、父は言ったのだった。
「じゃあ、こうしよう。お父さんが棺桶に入ったときに、きみは100円玉をぼくのために飾ってくれないか。」
「カンオケって?」
 わたしは父の言うことを遮って訊いた。
「カンオケっていうのは、歳をとって冷たくなったら入る箱だよ。お父さんが冷たくなったら100円をぼくに返してくれたらいい」
「ふーん」
「いま、きみが持っているその100円でなくてもいいんだよ。お金というのは、その額面が大事なんだ。そのコインに『1』『0』『0』って描いてあるだろう? それがそのお金の価値なんだよ」
 わたしは何かを理解したような気持ちになって、父の話を聞いていた。
「とにかく、その時まで、100円をきみに貸しておくから。その時に返してくれたらいいんだよ」
 父はそう言ってわたしを見つめると、自分の居どころに身を帰した。
 わたしには、そのときから100円玉というものが重いものになった。100円玉を出し入れする度に、父にいつの日にか渡すはずのコインを交換している気になる。
 わたしにとって、100円とは、お金とは、つまり、そういうものなのだ。
(おしまい)