身体の反応を信じている
この人がいたから、僕は僕になった。僕が僕であることに、何にも思わなくなった。ただ、そうあるだけだ、というに過ぎない。この人がいない人生なんてそもそも、なかった。
人は人を産む。それから育てる。刺激し合う。感化し合う。時には蔑んだり、罵倒したり、情けなかったり、しんどかったり。
でも、そういうことも含めて、当たり前に楽しかった。私たちはわたしたちなりに楽しかった。
この人のいない人生なんてなかった。
父と似ている自分を見つけるたびに、なんだか苦しい気持ちになる。自分も、父と同じように人生を歩むんだろうか、と。
父は、けっきょく最後まで誰にも愛されなかったよう思う。愛されようともしなかったし、ただ、愛はそこにあると思っていた。
多くの男の子がそうであるように、この人も、母親からの無償の愛を特別に感じていたと思う。そして、それを得られないことの喪失感に包まれていたんじゃないか。父にとって、妻は、母になり得なかった。当たり前だけれど。最期まで、自分の母親のことを考えて過ごすんだろう。
わたしは? 言葉としてはなんとなく、わかっているつもりでいる。でも、それは理屈に過ぎない。
理屈ではなく、身体は反応する。自分の奥底に反すれば、否応なく反応する。身体は、その方法ではないとも叫ぶ。身体はそれを知っているのだ。
自分を請け負って生きることを避けていた。誤魔化して生きていけばいいじゃないかと、自分を恐れてしまってた。現実を見ないことは簡単だった。
でも。
自分が自分であることには、変更はない。縁も運も変えられない。他人も変えることはできない。
でも、ルールは、変えることができる。自分の捉えた方は簡単に変えられるし、人をどう捉えるのかも変えられる。
意固地になっているのは自分でしかない。
父は、そのように生きた。
でも、たぶん、ぼくは、そうではない。
ないことも、できないことも、ぼくの一部だ。
得られないことも、与えることができないことも、ただ、ぼくである。
でも、それだけでは、わたしは毀損されない。
あることも、できることも、ぼくだ。
得ていることも、与えていることも、ぼくだ。
きちんと、生きることができている。そう、捉えられている。
自分が、何をするべきで、何をしていたいのか。いろんなことについての、”今の所の”答えを持っている。
どんなことにも反応できるだろう。それは何かに懸命だからではなく、自分の身体の反応を信じているからだ。
この身体は、父からもらったもの。
この人を、愛してる。