どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

伝えるということが人との関係そのものであること

 なにかを人に伝えることの困難さを。面と向かって目を見て言ったって伝わらないことだってあるのに。こんな小さな箱を介して、誰かの力を借りたって、伝わるかどうかなんて、全くわからない。伝えようとしたことも、この世界に存在していることさえも、ぜんぶ夢なんじゃないの。
 ましてや、わたしが紡いだ言葉に、どれだけの表現力があるというのか。機械の指定した文字を使って、ありきたりのことを言ったって、そこに意思が乗るわけがない。そこには声色も、顔の表情も、目の輝きも、ない。わたしの傷痕になんて、なんの意味もない。ただ、いま、わたしがどう生きているのか、これからどう生きるのか、ということが大事であるのに。
 人は、とりあえずは意思さえ失わなければ生きていけて、誰をだって楽しくさせることは適うはずなのに。
 置いていく☆になにかが乗っているなんて、置いていく人間のエゴに過ぎない。本当に何かを想ったのなら、伝えたい言葉があるはずなのに。それを躊躇してしまうくらいに、言葉が身近なものではないのだ。それでなにかが伝わると思っている。相手との距離なんて関係なくて、繋がっていることには変わりがないのに、伝える意思さえもないのなら、どうあったって、伝わりようがない。きっと、伝えたいことなんてないのだろう。ただ繋がっているつもりでいたいんだろう。それこそ、幻に過ぎない、って、ぼくは思う。
 繋がっている、なんて、本当はもっと大仰なことだったはずなのに、いつの間にかインスタントになって、ぼくたちは、壊れていっている。
 そのことにも気がついてなくて、ぼくはとても愚かで。
 テクノロジーに足元をすくわれたって、活用したって、現実は現実なのに。
 ぼくは、あまりにも現実を捉える能力が乏しいのだ。
 冷静にやろう、ぬかりなくやろう、疲れてるんだ、なんて、ぼくの性質の前にはただ無力で。ただただ生きにくいんだ。自分が伝えようとしていることさえも、捉えられていないのだ。
 なんだか、そんな気がしてる。伝えるということって、人との関係そのものだと、ぼくは、思う。