どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

こころの安らぐときを

 とりあえずは、今ある安全基地を守る。そこは温床であり、本当には私のためになるのかもわからない。なにが自分にとって良いところ、良いもの、良いひと、なのかなんて、誰にもわからないことだ。
 わたしは、安全な場所なくして生きられそうにない。なぜ、安心な場が必要なのかは、とても柔らかいところに触るので、とりあえずは書かないでおきたい。とにかく、ひとりでも安全な場を自分で創り出すか、誰かと一緒に作るのか、というところ。人は誰かに安心を提供するためだけに生きているわけではないし、自分もまたそうである。依存し合ってはいけない。人は基本的には自分のために生きるべきだし、それが達成できる人と生きるべきだ、と僕は思う。何がどうなっても、自分の責任で生きていたい。でも、誰かに何かを預けきってしまう人は多いというか、そう生きることをそもそも求められてしまっている人もある。たぶん、ぼくもそうだった。
 今ある安全基地が永遠に在るわけがない。これから得られるかもしれないどんな安心だっていつかはなくなる。臨機応変に生きられるなら、それに越したことはないし、自分ひとりで安全でいられるのなら、その方が良いのかもしれない。安全な場所を人と一緒に作ることが出来たとしても、自分にはその人を幸せにできるのか、わからない。幸せにしている、思ってしまった瞬間になにかが壊れるという気もする。
 今までにどれだけのことを、様々な人のお世話になってきたのか。自覚できていないことも多過ぎるし、自覚できないということは、それもさえ、簡単に失ってしまうということだろう。ただ通り過ぎていった人たちが、普通にわたしに接してくれたことは、とてもうれしいことだった。違和感が何もないということが、安心そのものだった。
 愛だ恋だと、自分を誤魔化していたくない。それは、人類共通のとてつもない誘惑なのではないか、とさえ思ったりする。こころで繋がることは、この上無い快楽であるもの。自分は、そういった誘惑をしばらく考えずに生きてこられたのだけれど、これからは、そうもいかないようだ。それだって、自分が現実を見ていなかった、というだけなのだけど。
 じゃあ、自分が人になにができるのか、って。でも、それは、自分で決めるものでもないのかもしれない。あなたと生きてみたいという気持ちがどんなものであったとしても、蔑ろにしてはならない、ということに、この歳になってようやく気がついた。それってものすごくダサくてカッコ悪いことだったと思う。情けなく思う。
 どんな縁でも、あきらめることができるのなら、それまでよ。離れる理由に折伏できるのなら、それまでよ。どんなことだって、人を想う理由になるし、また反対の理由になるのだろう。人は人のことを感じたいように感じる。安心・安全も同じだと、ぼくは思う。
 なにが自分にとって良いところ、良いもの、良いひと、なのかなんて、誰にもわからないことだ。それは、どこだって良いところになるし、なんだって良いものになるし、誰だって良いひとに感じることができる、ということ。
 自分をなんとかするのは、自分しかいない。自分の中に沸き起こる感情に対する身体の反応を、信じてる。