どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人と関わるということの、楽しみを、美しみを

 ネットを通して、人と関わったりした。相手も自分のことをよく知らず、私も相手のことをよく知らなかった。ただ文字だけの情報。言葉を交わした人もある。でも、やっぱり、誰のことも、よく知らなかったと思う。そこに人がいたのは確かで、でも、なんだかそれは、とても朧だった。
 3ヶ月一緒に仕事をしても、声さえもほとんど聞いたこともない人もいるし、会ったその日に打ち解ける人もある。そこからどんどん知っていることは雪だるま式に増えていくこともある。
 それは、その人がただ良い人だとか、人当たりが良いだとか、ノリが良いとか、明るいとか、人格とか性格とか、人相とか、清潔感とか、常識的だとか、なんだか、そんな理屈っぽいことではなくて、なんだかわからないけれど、きっと、人と人には何かがあるんだろう。ぼくには、そうとしか思えない。
 当たり前のこと。誰もが好きになる人なんていないし、誰からも嫌がられる人も、たぶんいない。どこかの誰かは他の誰かに愛され得るし、あるいは嫌われ得る。
 自分と向き合わない人もいるし、自分のしたこととでさえも決して向き合わない人もいる。向き合えないということもある。
 自分の気持ちにどうしても素直になれないことだってあるんだろう。とことん自分の気持ちとは逆のことをし尽す人もいる。
 私にマウンティングしていた人のことを思ったりする。その人が私に示した嫌悪を、その後、その人はことごとくやっていた。それらは、本当にはその人がやりたいことだったんじゃないかと思ったりする。人は自分にはできないけれど、したいことをしている人を見ると、そういう行動をすることがあるんだと思う。なんか、そんなことを以前に書いた。
 うまく自分の気持ちを表現することができない人。表現力だったり、性格的なものだったり。
 どこまでも頑なな人というのもいる。何かを割り切っている人もいるんだろう。それだからこそ、その人にとって信頼できるものがあるのかもしれないと思ったりする。
 人と人が関わるということを、どう捉えたらいいのだろう。
 その人の顔を知っているからといってその人と関わったことにはならず、言葉を交わしたからといってその人と関わったことには、たぶん、ならない。
 その人をネット上で認めたからといって、その人のことを認めたことになるだろうか。なんだか、どこまでも寓話の壺の中にいるような気がしてしまう。
 人の行動というものに。あるいはその反応というものに。人がしたいことに。その人がしたいこととは逆のことをしてしまうということに。人を知るということに。人と関わるということに。僕はやっぱり不思議な感覚を持ってしまう。
 だから、面白いと思うのだろう。ときに美しいと思ったりするのだろう。
 ネットはただの道具でしかない。ペンフレンドとかアマチュア無線とかテレクラとか、便所に書いてある電話番号とか、海に流すボトルとか、風船に手紙をつけて空に放つとか、なんか、そういうのと同じ。
 ネットという道具が、道具としてだけではなく他のことにも使えることにとても魅力があるのだけど、なんだかいろんなことがわかっていない。僕たちにどんな影響を及ぼすんだろう、って。
 道具には当たり前にいろんなことが付随してくるし、そのことに敏感でないと、つまり使い方を誤ると、ひどいことになる。
 例えば、ツイッターでは、自分の書いた言葉が、フォローしている人には見たくない内容のものだって目に触れてしまう。ストリームとして。情報として。独り言として。それで不快になってしまう人だってある。
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 人と関わることについては、やぶさかではない。
 自分から梯子を外してしまった人がいた。そうされるに値することを私がしたのだ。さよならも言えなかった。その人がしたかったことを、うまく引き出すことができなかったことが、自分には心残りだった。関わることをやめてしまったら、その人の未来を見ることは、できない。導くこともできない。けしかけることもできない。
「ネットは道具でしかない」。その向こうには依然として人がいる。道具を通して見た、人の垣間見える「今」は、どのくらいその人なんだろう。
 人と関わるということの、楽しみを、美しみを、死ぬまで存分に味わっていたいなー、と思う。そんな感じです。